めぐみイエス・キリスト教会礼拝メッセージ(第462回)
◇◆◇2019年6月30日第五主日礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書18章9節~10節】 (新約p.199上段真中)
18:9 それは、「あなたが私に下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした。」とイエスが言われた言葉が実現するためであった。
18:10 シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
◎メッセージの概要【耳を切り落とされたしもべ】
《この記事は、4つの福音書のすべてに書かれています。3つの共観福音書では、剣を抜いて大祭司のしもべの耳を切り落とした弟子が誰であるのかは書かれていません。しかしヨハネは、後年、ペテロが大祭司のしもべの耳を切り落とした張本人であること、そしてそのしもべの名前がマルコスであったことを書き記しています。
まず、ヨハネがなぜマルコスの名前を知っていたのかですが、彼は大祭司と知り合いであったことから、その証拠として、名前を書き残したと、言えるかと思われます。
主イエス様は、ヨハネ・マルコの家からゲッセマネの園に向かわれる直前に、弟子たちに不思議な命令を下されました。そのことは、ルカだけが書き記しています。
「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた。』と書いてあるこのことが、私に必ず実現するのです。私にかかわることは実現します。」 実は、このことは比喩的表現なのですが、弟子たちには理解出来ませんでした。「剣を買いなさい」とは、つまり「剣を持ちなさい」と言う意味なのです。しかし、その時、弟子たちは、イエス様と自分たちの護衛用に、剣2本を所有していたのです。
それゆえ彼らが、「主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります。」と言うと、イエス様は彼らに、「それで十分。」と言われたわけです。この剣は、おもに強盗や山賊から身を守るためのものであったと考えられます。
しかし、よくよく考えて見ますと、確かに私たちと同じく、まことの人ではありましたが、同時にまことの神様であるイエス様が共におられるのですから、たとえ2本であっても、剣を必要とするのでしょうか。
その答えを、同一平行記事としてマタイが、自ら見聞きしたことを書き記しました。
「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、私が父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今私の配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」と。
マルコの福音書の平行記事は、簡潔に書かれています。
『そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。』
マルコはシモン・ペテロが語った説教をまとめ上げて福音書を執筆しましたから、ここでは、ペテロが、自分がその本人であることを伏せていて、「イエス様のそばに立っていたひとり」と、他人のことのように説明しています。ここからペテロ自身が、行なった行為を恥じている気持ちを抱いていることが感じ取れます。
そして共観福音書として、3番目に執筆されたルカの福音書では、イエス様が、右の耳を切り落とされたしもべにさわられていやされたことを書き記しています。
マタイとマルコでは、単に「耳を切り落とされたしもべ」となっていますが、ルカとヨハネは「右の耳」と書いています。これは後に、どちらの耳が切り落とされたのかが明確になったことを表わしています。これこそが、マルコスが救われた証拠なのです。
さて、マルコスは右の耳を切り落とされました。その時、イエス様が、切り落とされた耳を拾って、マルコスの耳にくっつけたとしたら、どうでしょうか。
メル・ギプソンの映画「パッション」では、そのように描かれています。しかも大祭司のしもべではなく、設定がローマ兵となっています。もし、そうだとしたらマルコスは、どのような思いを持ち、あるいはどのように感じるのでしょうか。
彼はシモン・ペテロによって右の耳を切り落とされました。しかし、イエス様が、その耳をくっつけて下さったとするならば、たとえ証ししたとしても、多くの人々は、マルコスの幻覚、あるいは夢のように思い、笑って相手にしないではありませんか。 時が経つにつれ、やがてマルコス本人も、「自分は夢を見ていたんだ」、あるいは「夕食の葡萄酒を飲み過ぎて酔っていたんだ」、と納得してしまうではありませんか。
しかしルカは、イエス様は、耳にさわって彼を直してやられた、と明確に書き記しているのです。もし、くっつけたのなら、「イエス様は、耳を拾って元通りにされた。」あるいは、「切り落とされた右耳をくっつけてやられた」と書くはずなのです。
いいえ。新しく右耳を創造されたのです。やがてイエス様は捕らえられ、連行されて行きます。その時、マルコスは、切り落とされたもう一つの彼の右の耳を発見します。とすると、今自分の右の耳は、いったい誰の耳なのでしょうか。これこそが主イエス様こそ「創造主」なる所以なのです。それだからこそ、後に彼は信仰を持ち、さらに忠実な主のしもべとなったのです。その証しとして、使徒ヨハネは、その福音書に彼の名前を書き残したと言うわけです。
さて主イエス様が、「買うように」「持つように」と言われた「剣」とは何なのでしょうか。この出来事を通してイエス様が私たちに何を教えようとされたのでしょうか。
その答えが、使徒パウロによって、エペソ人への手紙に書かれているのです。
『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神の言葉を受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』
主イエス様が言われた「剣」こそ、神の言葉である「聖書」なのです。み言葉こそが、クリスチャンの唯一の武器です。そして「祈り」こそが、あらゆる事態を好転させ、また様々な不思議としるしと奇跡を引き起こすカギであり、力となるのです。まさしく「義人の祈りは、働くと大きな力がある(ヤコブ5:16)」のです。》