◇◆◇日々のみ言葉
2019年11月3日(日)
◎聖書箇所【使徒の働き17章16節~17節】
17:16 さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。
17:17 そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。
◎ショートメッセージ
《引き続き同じ箇所からとなります。
アテネは、まさに世界の文化の中心でした。そして過去において多くの偉人や名士を排出して来たのです。
広場には、ソロンやコノンやデモステネスと言う名士たちの像が林立していました。パウロが見た偶像とは、おもにそのことです。それは確かに、人間によって作られた最高の芸術作品ではありましたが、結局は、真の神様を褒め称えるのではなく、異教の神々の祭の為に捧げられた偶像にほかなりませんでした。
それを見たパウロは、「心に憤り」を覚えたのです。それはいわゆる「聖なる怒り」でもあったのです。
かつて主イエス様は、宮聖めをなされました。
『ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。
「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネの福音書2:13~2:16)』
主イエス様も怒られたのです。怒りを覚えられたのです。しかし、それは単なる怒りではありません。
まさに「神のねたみ」から来る「聖なる怒り」なのです。
しかし、勘違いしてはなりません。だからと言って、私たちが、むやみやたらに主イエス様のなされたように同じことをしたり、また「聖なる怒り」だからと言って、自分で裁いたり、また裁きを与えたりしてはならないのです。
なぜなら「裁き主」は主イエス様、ただおひとりであられるからです。
使徒パウロは、このように勧めています。
『だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。
「復讐は私のすることである。私が報いをする、と主は言われる。」
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ人への手紙12:17~12:21)』と。
また、主イエス様は、弟子たちに、私たちに、このように言われました。
「あなたがたは、世にあっては艱難があります。しかし勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです。」と。》