◇◆◇日々のみ言葉
2019年11月14日(木)
◎聖書箇所【使徒の働き17章32節~33節】
17:32 死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。
17:33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。
◎ショートメッセージ
《「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
ここで使徒パウロは、主イエス・キリストの復活について言及したのです。すると、それまで熱心にパウロの語る言葉に耳を傾けていた、アテネの哲学者議員の中に、あざ笑う声がまき起こったのです。
またある者は、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と席を立ち始めたのです。
アレオパゴス議会に集まっていた哲学者たちは、笑いながら出て行きました。後に残されたパウロは、その場面をしばらく見つめながら、彼自身もその場を立ち去ったのです。
しかし、このメッセージは決して無駄にはなりませんでした。アレオパゴス議員の中に、パウロの語るメッセージによって心打たれた者がいたのです。
神様は、何時もそのように、救われるべき人を、その時その場に置かれています。その人たちが、この場に居合わせたことは偶然ではありません。それは、彼らが生まれる前から、すなわち母の胎に宿る前から定められていたのです。
人が救われることには、間違いなく「時」があります。しかし、そうであっても、最後に決断するのは、その人自身なのです。創造主なる神様は、人間をロボットの様にはお造りにはなりませんでした。自由意志を与えられたのです。
主イエス・キリストの「十字架の救い」を受け取ることも、受け取らないことも、その人の意思にかかっています。
それなのに、なぜ神様は、先回りをされて、そのような人々を用意されておられるのでしょうか。
その答えは、
「柔らかい魂」にあります。
「砕かれた心」にあります。
「悔いた心」にあります。
「へりくだった心」にあります。
「人の話を聞こうとする柔和な心」にあるのです。
私たちは、心を決して堅くなにしてはならないのです。柔軟な心をいつも心掛け、聖書(み言葉)から、あるいは礼拝に語られるメッセージから、霊的書籍から、聖霊様によって教えられて行く必要があると、言えるのではないでしょうか。》