• 日々のみ言葉 2019年11月16日(土)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2019年11月16日(土)

    ◎聖書箇所【使徒の働き18章1節】
    18:1 その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。

    ◎ショートメッセージ
    《今日から、「使徒の働き」の学びは、18章にはいります。
     パウロは、一人でアテネから、アカヤ州の首都コリントに向かいました。

     コリントとは、中央ギリシヤとペロポンネソス半島を結ぶ地峡の2.5キロ南にある都市のことで、アテネは芸術や文化の中心でしたが、コリントは政治的、また経済的中心を成していた都市であったのです。

     福音を伝えるための拠点としてパウロがこの都市を選んだのは、コリントが西と東との海路の接続点であり、また北と南との陸路の接続点でもあって、通商や交通の要路であったことによります。
     この地峡は東西からの交易隊が自然に出会う地点でもありました。小アジヤ、シリヤ、エジプトからの船は地峡の東側の港ケンクレヤに入り、イタリヤ、シシリー、スペインからの船は西側の港レカイオンに着いたのです。この2港間の距離は8キロで、大型船舶の荷物が船から船に移されている間に、小さな舟は舟ごと陸路を運ばれたとのことです。
     そうでない場合には、船は風の強いマレアス岬を320キロも迂回して周航しなければならなかったのです。
     その為、地峡を横切る運河を掘る必要性がアレクサンドロス大王、ユリウス・カイザルや皇帝ネロなど多くの者たちに認められ、紀元66年にネロが工事を始めましたが失敗に終わりました。
     この都市は、高さ566メートルのアクロコリントの山すそにあり、その山の山頂にはとりでと、アフロディト(ギリシヤ神話で、アシュタロテにあたる愛の女神)の神殿がありました。
     そこで公に行なわれていた神殿売春は、多くの人と富を引きつけ、またコリントの風紀を乱したのです。一時は一千人の売春巫女がいたと言われています。
     ついにコリントは不道徳の代名詞となり、「コリント的に行なう」という言葉は、「不道徳を行なう」ことを意味したほどでした。

     パウロがコリントに訪れた年は、アカヤ州総督ガリオのコリント在住が,紀元51年から52年であったことが、考古学の発見によって、ほぼ明らかになり、その時間的関係から、紀元50年の初め頃と、確実視されています。
     その当時のコリントは、自由民20万人と50万人の奴隷がいたと言われています。
     ローマ人、ギリシヤ人のほかにも多くの人種が集まり、かなりの数に上るユダヤ人も居住していました。

     1898年プロピラエアの石の階段で、ギリシヤ語で「ヘブル人の会堂」という言葉が書かれた石碑が発見されました。
     碑文の年代は、紀元前100年から紀元200年の間と推定されますことから、この場所がパウロが、毎安息日ごとに訪れていた会堂ではないかと言われています。

     また、この近くの住居跡の一つがテテオ・ユストの家であるとも言われています。パウロは、この大きな町に1年半滞在することになるのです。》

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