◇◆◇2019年11月17日第三主日礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書20章19節~23節】 (新約p.204下段真中)
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父が私を遣わしたように、私もあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
◎メッセージの概要【あなたがたに平安があるように】
《週の始めの日の夕方のことです。つまりイエス様の十字架から三日目の夕方になります。ユダヤでは夕方は二つあります。一つは午後3時頃のことで、日が西に傾く時を指します。次に文字通りの夕方です。おそらく午後5時過ぎになるかと思われます。この出来事は、二つ目の夕方であって、しかもまもなく新しい一日を迎えようとしている時です。
ヨハネは共観福音書に書かれていることを省き、あえて重複を避けています。
ルカの福音書によりますと、
『すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると十一使徒とその仲間が集まって、
「本当に主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれた時にイエスだとわかった次第を話した。
これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。
「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。私の手や私の足を見なさい。まさしく私です。私にさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。私は持っています。」イエスはこう言われて、その手と足を彼らにお示しになった。(ルカ24:33~24:40)』となっています。
イエス様は、まず最初にマグダラのマリヤにご自身を現わされました。次にスザンナ、ヨセの母マリヤと他の女たちに、そして次にシモン・ペテロに、その後、エマオの家に戻ろうとしたクロパとその妻マリヤに、現われたのです。
この二人は、すぐにエルサレムに引き返します。エマオはエルサレムから11キロ離れています。家に戻る時には、イエス様とゆっくり歩いて来たはずです。そしてイエス様を自分たちの家に案内し、パンを裂かれた時に、二人の目は開かれ、イエス様と分かったのです。その瞬間、主は見えなくなってしまいます。
問題は、どうやってこの夫婦が、その日の夕方までにエルサレムに戻ることができたのか、と言うことです。二人はロバに乗って来たのです。
さて、使徒トマスはおりませんでしたが、この時すでにクロパとその妻マリヤは合流していました。部屋には、かぎが掛けられています。そこへイエス様が、突然、彼らの真ん中に立たれるのです。
その最初の言葉が、「平安があなたがたにあるように。」
「平安」とは無事で穏やかなことです。そしてその反意語は「不安」です。この時の弟子たちは、「不安・恐れ・失望・悲しみ」の中にいたのです。まさに真っ暗闇の中に。
そこに「光」であられるイエス様が来られました。光の前では、どんな闇さえも消えてしまいます。
イエス様は、十字架にかけられる直前にこのように教えられました。
『「私がこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたが私にあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです。」』
残念ながら、この時には弟子たちには、理解できなかったのです。
さてイエス様は、その後「父が私を遣わしたように、私もあなたがたを遣わします。」と言われ、そして、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。」と言われました。これは預言です。この日から五十日目、すなわちペンテコステの日の朝9時に、それは成就します。
さて、弟子たちは「不安と恐れ」でいっぱいでした。彼らが一番恐れたこととは、「イエス様」がおられないということです。彼らは三年半もイエス様と一緒に寝食を共にしながら、主の語られたみ言葉を、十字架と復活の預言を、主の約束を信じてはいなかったのです。これが人間の本来の姿なのです。私たちは信じられない者なのです。
イザヤ書にはこう書かれています。
『神である主は、こう仰せられる。「見よ。私はシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」』
この聖句は、ローマ書と第Ⅰペテロにも引用されており、最後が「彼を信じる者は失望することがない」と置き換えられています。
私たちは、何時「平安」を失ってしまうのでしょうか。それはイエス様から目が離れた時です。イエス様を疑う時、恵みを忘れてしまった時、イエス様が見えなくなり、不安の落とし穴の中に落ちてしまうのです。
さて、最後に、20章23節の言葉です。
「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
この言葉は「聖霊を受けなさい」の後に続いています。よって聖霊が来なければ、これは出来ないことです。つまり、傷を受けたその人の魂の問題なのです。その罪は、許さない人の心の中に残るのです。
イエス様は、自由にして下さいます。赦すことによって、あなたの傷もあなたの心も、本当に自由になるのです。もちろん何度も赦す宣言が必要なことは言うまでもありません。》