◇◆◇日々のみ言葉
2019年11月23日(土)
◎聖書箇所【使徒の働き18章7節】
18:7 そして、そこを去って、神を敬うテテオ・ユストという人の家に行った。その家は会堂の隣であった。
◎ショートメッセージ
《アンテオケからシラスと弟子テモテが合流しますと、パウロはアクラとプリスキラ夫婦と一緒に「天幕作り」をしていましたが、伝道に専念することになりました。
その理由は、シラスが旅費を持っていたからです。そして毎安息日ごとに、ユダヤの会堂において、あるいは街角や広場において、コリント在住のユダヤ人たちや、改宗者となったギリシャ人たちに、主イエス・キリストのことを解き明かしたのです。
しかし、彼らが反抗してパウロに暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く。」と言って、会堂から出て行きました。
そして、コリントのユダヤ人の会堂の隣の家に行ったと言うわけです。啖呵(たんか)ろ切って出て行ったわけですが、その行き着く先は隣の家とは、私は笑ってしまいます。
テテオ・ユストはギリシャ人です。彼はコリントの住民で、その家は会堂の隣にありました。ルカは、彼が「神を敬う」敬虔な異邦人であると書き記しています。よって、すでにパウロを通して導かれ、主イエスによる兄弟になっていたことは間違いないと思われます。
彼が何時、パウロによって導かれたのかは分かりかねますが、そのヒントは、彼の家がコリントのユダヤ人会堂の隣にあったことにあります。
つまり、何度か安息日に語るパウロの話に聞き入り、安息日の集会が終わった後、秘密裏に、パウロを自宅に招き入れ、そして今度は誰の目をもはばからず、じっくりとその教えを聞き、ついに主イエスを受け入れ、信仰を持ったのではないでしょうか。
実は、別の写本においては、「テテオ・ユスト」は、「テトス」とも書かれているのです。もしかしたら、パウロが去った後、コリントの教会を任される弟子テトスと同一人物ではないかとも考えられるのです。
しかし、パウロは第一回エルサレム教会会議に、バルナバと共にギリシャ人であったテトスを連れて、エルサレムに上っています。その年代は、紀元46年~48年頃の可能性が高いと言われています。
となりますと、パウロがコリントにやって来たのが、紀元50年の始めの頃でありますから、年代に前後のズレが生じることになります。
もう一つの推測は、ガラテヤ書に書かれた記事が、第一回エルサレム教会会議ではなく、別の機会ではなかったかと言うことです。となりますと、今度は何時パウロがテトスに出会ったのかが問われて来ます。
ガラテヤ人への手紙によりますと、
『それから十四年たって、私は、バルナバと一緒に、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。(ガラテヤ人への手紙2:1)』
と書かれ、この時初めてギリシャ人の弟子テトスが登場するのです。私個人は、テテオ・ユストこそ、パウロの愛した弟子テトスではないかと思っています。
その理由は、問題の多かったコリント教会を導くリーダーは、外部から来た者ではなく、コリントの事情に詳しい者ではなくてはならなかったからです。
ユダヤ人の会堂の隣に住むテテオ・ユストこそ、あるいはテトスこそ、最もふさわしい人物ではなかったのではないでしょうか。》