◇◆◇2019年12月1日第一アドベント礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書20章26節~29節】 (新約p.205上段右側)
20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
◎メッセージの概要【見ずに信じる者】
《今日から12月にはいりました。アドベント第一週です。今日は先週の続きとなります。
さて週の始めの日、すなわち日曜日。主イエス様がよみがえられた日のことです。その夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れてカギをしめて、ヨハネ・マルコの家の二回の大広間に潜んでいた矢先のことです。おそらく夕食の準備が行なわていた時かと思われます。その時、主イエス様が来られたのです。しかし、十二弟子のひとりトマスはいませんでした。
その後、トマスが彼らと合流した時に、弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と喜び伝えたのです。しかし、トマスは「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言ったのです。
そしてそれから一週間が経ちました。この時にも、弟子たちはまた同じ室内におり、トマスも彼らと一緒にいたのです。以前と同じように、戸が閉じられていましたが、主イエス様が来られて、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われたのです。
この時の最初の言葉は、一週間前と同じです。なぜなら、トマスの心は「不安」で満ちていたからです。そこにイエス様は来て下さいました。
ところで聖書は、この一週間にイエス様が何をなされたのかについて沈黙しています。これは私個人の推測ですが、イエス様には母マリヤと四人の弟、そして二人以上の妹がいたのです。私は、この一週間の間に家族にご自身を現わしたとしか考えられないのです。
その証拠は「使徒の働き」に見つけることが出来ます。使徒の働きおいてルカは、イエス様がオリーブ山において昇天された後に、このように書き記しています。
『十一弟子たちはエルサレムにはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、みな心を合わせ、祈りに専念していた。』と。
何と、この中に、主の母マリヤとその兄弟たちがいるのです。彼らは、十字架の時には、主イエス様を信じてはいませんでした。なぜ彼らがこうも変えられたのでしょうか。それは、主が直接現われ下さったとしか考えられないではありませんか。
主イエス様は、「最後の晩餐」の時に弟子たちに、このように預言と約束をなされました。
「私はもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」と。
イエス様はこの約束を十一弟子たち全員にされたのです。もちろんトマスにもです。
この約束の通りに、八日目に主はトマスに現われて下さいます。
「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
「私の主。私の神。」
「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
この会話から、イエス様がトマスの不信仰をとがめられたような感じがしないでもありません。そうではないのです。
実は、ペテロでさえ、また他の弟子たちでさえ、主イエス様を見なかったら信じることは出来なかったのです。私たちは「見なければ信じることが出来ない者」なのです。これが人間です。それでは「見ずに信じる者」とは誰を指すのでしょうか。
使徒ペテロは、このようにその手紙に書き記しています。この手紙はローマにおいて紀元63年頃に書かれたと伝えられています。
『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、言葉に尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。』と。
特にこの言葉は、まさに今現在の私たちに向けられた言葉でもあるのです。今の私たちは、主イエス様を見る事も触れる事もできません。しかし私たちの内に住んでおられる聖霊様を通して主イエス様を知ることが出来るのです。このお方は、今も生きておられます。そして、ご自身を現わして下さいます。私たちは確かに「見ずに信じる者」なのですが、本当は、様々なしるしや奇跡を体験することによって、信じる者であり、また証し人なのです。》