◇◆◇日々のみ言葉
2021年4月16日(金)
◎聖書箇所【マタイの福音書12章8節~10節】
12:8 「人の子は安息日の主です。」
12:9 イエスはそこを去って、会堂にはいられた。
12:10 そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。
◎ショートメッセージ
《主イエスは、パリサイ人や律法学者たちの前において、何度もご自身のことを「人の子」と呼ばれています。
これは、主が好んでその呼び名を使われたのではありません。実は、この言葉は、ダニエル書に書き記されているのです。
ダニエル書によりますと、
『私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。(ダニエル書7:13~7:14)』と書かれています。
ここに書かれた「人の子」こそメシアなるお方であり、また神がモーゼに約束された預言者であるのです。
よって、旧約聖書に通じているパリサイ人や律法学者たちは、主イエスが何の意味を持って、その呼び名を用いているのか、分かっています。
「人の子は安息日の主です。」
この言葉こそ、「安息日」を定めた神ご自身であることを証しています。
そして「安息日」がやって来ました。主イエスは、ユダヤ人の会堂に入られたのです。ユダヤ人は、最初の祈りを午前9時に捧げる習慣があることから、シナゴークにおける主なる神を礼拝する集会は、おそらく午前9時から始められたのではないでしょうか。
そこには大勢のユダヤ人が集まっています。パリサイ人や律法学者たちは、集会の主役でもあって、巻物のトーラーが朗読されると、その箇所から解き明かしをします。
主イエスが会堂の中に入られると、そこには「片手のなえた人」がいました。おそらく、これは彼らの策略であって、彼らは、あえてその人を連れて来たのです。
主イエスを見ると、「待ってました」とばかりに、彼らは質問します。
「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」
彼らは、これまでに主イエスが成された多くの奇跡を見ています。しかも彼らは、主イエスが「片手の萎えた人」をいやせる事を知っているのです。
かつて、大預言者エリヤとエリシャもいやしを行ないました。しかも、その二人よりも、数え切れないほどの奇跡としるしを主イエスは行なっているのです。こんなことは、人には出来ないことです。
そしてマタイは言います。これは「主イエスを訴えるためであった」と。》