• 日々のみ言葉 2021年11月5日(金)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2021年11月5日(金)

    ◎聖書箇所【マタイの福音書23章5節~7節】
    23:5「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。
    23:6 また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、
    23:7 広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。」

    ◎ショートメッセージ
    《この主イエスの言葉は、マルコとルカの福音書にも同一並行記事として書かれています。
     マルコは、
    『イエスはその教えの中でこう言われた。
    「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」(マルコ12:38~12:40)』となっており、

     ルカでは、
    『また、民衆がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちにこう言われた。
    「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」(ルカ20:45~20:47)』となっています。

     特に、マタイには書かれていませんが、「こういう人たちは人一倍きびしい罰を受ける」と言われた、主の厳しい言葉を、マルコとルカは書き記しています。
     もちろん、この場面において、主イエスは彼らの罪を裁いているのではありません。主のお心は、ただ一つです。それは、『悔い改めて、私を信じなさい。』と言うことです。

     主が言われる「人に見せるため」とはどのようなことなのでしょうか。それは、自分が正しく清い者であることを、演じていると言うことです。まさしく二枚舌なのです。

     この箇所を読みますと、いつも自分自身の事を顧みることを、せがまれているような気がしてなりません。
     「私はクリスチャンを装ってはいないだろうか。自分が正しい清い者であるかのように振る舞ってはいないだろうか。」と。

     「清められる」と言うことはどのようなことなのでしょうか。それは、自分が以前よりも「清くなった」、あるいは「清められた」と感じることでしょうか。
     いいえ。私は違うと思うのです。

     人は、聖霊様によって、清められて行くにつれ、いかに自分が罪人であるのか、救いようがないことを深く悟ることであり、自分自身に絶望することだと思うのです。
     だからこそ、主イエス様の十字架が必要なのです。だからこそ、主が私の身代わりとなって死ななければならなかったのです。私が生きる為に、です。》

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