◎本日の聖書箇所【使徒の働き13章14節~25節】(新約p.260上段左側)
13:14 二人はペルゲから進んで、ピシディアのアンティオキアにやって来た。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。
13:15 律法と預言者たちの書の朗読があった後、会堂司たちは彼らのところに人を行かせて、こう言った。「兄弟たち。あなたがたに、この人たちのために何か奨励のことばがあれば、お話しください。」
13:16 そこでパウロが立ち上がり、手振りで静かにさせてから言った。「イスラエル人の皆さん、ならびに神を恐れる方々、聞いてください。
13:17 この民イスラエルの神は、私たちの父祖たちを選び、民がエジプトの地に滞在していた間にこれを強大にし、御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出してくださいました。
13:18 そして約四十年の間、荒野で彼らを耐え忍ばれ、
13:19 カナンの地で七つの異邦の民を滅ぼした後、その地を彼らに相続財産として与えられました。
13:20 約四百五十年の間のことでした。その後、預言者サムエルの時まで、神はさばきつかさたちを与えられました。
13:21 それから彼らが王を求めたので、神は彼らにベニヤミン族の人、キシュの子サウルを四十年間与えられました。
13:22 そしてサウルを退けた後、神は彼らのために王としてダビデを立て、彼について証しして言われました。『私は、エッサイの子ダビデを見出した。彼は私の心にかなった者で、私が望むことをすべて成し遂げる。』
13:23 神は約束にしたがって、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださいました。
13:24 この方が来られる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、悔い改めのバプテスマをあらかじめ宣べ伝えました。
13:25 ヨハネは、その生涯を終えようとしたとき、こう言いました。『あなたがたは、私をだれだと思っているのですか。私はその方ではありません。見なさい。その方は私の後から来られます。私には、その方の足の履き物のひもを解く値打ちもありません。』
◎メッセージ【パウロのメッセージそのⅠ】
《今週から、ユダヤ人会堂において、パウロが語ったメッセージを三回に分けて学びます。
まず、バルナバとパウロが、取った伝道の方法は、主イエスが成された方法と同じでした。マルコの福音書には、最初に主イエスが、安息日にカペナウムの会堂に入って、教えられた事が書かれています。
通常、ユダヤ教の会堂における礼拝では、旧約聖書がまず朗読されます。初めに律法が読まれ、次に、それに関連する預言書が読まれたのです。その後、説教者は、その時読まれた聖書のみ言葉から、奨励をするのが通例でした。そして、説教者はあらかじめ定められてあるか、その時になって、会堂の役員が指名したのです。それゆえ、パウロが立ち上がります。
パウロのメッセージの元は、明らかにステパノが行なった最高議会での証言です。ステパノは、神がモーセの約束された「もう一人の預言者」こそ、主イエス・キリストであると言う真理を導こうとしました。
さて、ピシディアのアンティオキアの会堂には、正統的ユダヤ人たちと共に多くの改宗者がおりました。パウロは、改宗者に向けて語っています。
実は、改宗者には、二つの立場が存在していたのです。義の改宗者と呼ばれ、三つの儀式を受けてユダヤ教信徒となった異邦人。そして、門の改宗者と呼ばれ、三つの儀式までには至らず、ユダヤ教の聖典を認め、会堂の集会を守り、安息日と食物についての戒規を守る異邦人のことです。彼らは、「神を恐れる方々」と呼ばれていました。
さて、パウロはイスラエルの歴史を短く説明し、ダビデ王を取り上げて、その子孫として生まれた主イエスを証しします。そして、次にバプテスマのヨハネについて語り、その言葉を引用します。
『「あなたがたは、私をだれだと思っているのですか。私はその方ではありません。見なさい。その方は私の後から来られます。私には、その方の足の履き物のひもを解く値打ちもありません。」』
この証言から、パウロは、バプテスマのヨハネを直に知っていることが分かります。ヨハネの福音書には、エルサレムから遣わされた者たちが、バプテスマのヨハネの所にやって来て事情徴収した場面が描かれています。この使者の中に、若きサウロがいたのです。だからこそ、バプテスマのヨハネの言葉を明確に覚えていたのです。主イエスの公生涯の時も、十字架の時も、若きサウロはエルサレムにいたに違いありません。それにも関わらず、彼は、主イエスを信じることが出来ませんでした。
時があるのです。サウロが主に出会った時があったように。私たちにも、それぞれにやはり時があるのです。しかし、必ず時が満ちる時はやって来ます。
大切な事は、私たちは、決してあきらめず、祈り続け、待ち続け、期待し続け、信じ続けるのです。主イエス様をです。このお方は、本当に生きておられます。私たちと共にいて下さいます。》