◇◆◇日々のみ言葉
2021年12月10日(金)
◎聖書箇所【マタイの福音書25章1節~13節】
25:1「そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4 賢い娘たちは、自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けて下さい。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼と一緒に婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけて下さい。』と言った。
25:12しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」
◎ショートメッセージ
《引き続き、主イエスが言われた「十人の娘」のたとえ話からです。明日は先に行きたいと思います。
当時のユダヤの結婚について、三段階にわたるステップがありますことは、すでに学んだ通りです。主イエスが話されたこのたとえの場面は、いよいよ一緒に暮らすことが許される第三段階の「婚宴の日」になるのです。
当時、花婿は友人たちの付添と共に、花嫁の家に出向くことが一般的でした。その花婿と友人たちを迎えるのが、十人の娘たちで、みな乙女(処女)であったわけです。よって、この娘たちが教会であったとしたら、一人の花婿が十人の妻を迎えることになってしまいかねません。違うのです。花嫁は家の中で、待機して花婿を待っているのです。
主イエスは、「五人は愚かで、五人は賢かった」と設定しており、またその理由を、「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた」としています。
実は、これもおかしな設定なのです。油を用意するのは娘たちではありません。花嫁の父親がすることです。
また、もしこの「十人の娘たち」がクリスチャンであったとしたら、それこそ、クリスチャンの半分は天に引きあげられ、残りの半分は残されることになってしまいます。
しかも、油を用意していなかったと言う理由でです。そして、その油が聖霊様だとしたら、まさに人格を持っておられる第三位格の神様ではなく、聖霊は力や霊的影響力となってしまいます。いいえ。このお方は、神様なのです。
答えは、「十人の娘たち」とは、パリサイ人や律法学者たちを指しているのです。主イエスは、彼らに、「あなたがたは、愚かな娘か、それとも賢い娘なのか」と投げかけておられるのです。
そして「油」とは、すなわち「メシア」、油注がれた者である主イエスご自身を指しておられるのです。ご自身を信ずるならば、彼らであっても救われ御国に行けるのです。明日は先に行きましょう。》