◇◆◇日々のみ言葉
2022年1月26日(水)
◎聖書箇所【マタイの福音書26章55節~56節】
26:55 そのとき、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って私をつかまえに来たのですか。私は毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、私を捕えなかったのです。
26:56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。
◎ショートメッセージ
《ルカにおける同一並行記事では、
『そして押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たちに言われた。
「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。あなたがたは、私が毎日宮で一緒にいる間は、私に手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」(ルカ22:52~22:53)』と書かれています。
主イエスは、「しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」と言われました。これは、ゼカリヤ書からの預言を指し示しています。
『剣よ。目をさまして私の牧者を攻め、私の仲間の者を攻めよ。万軍の主の御告げ。牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、私は、この手を子どもたちに向ける。(ゼカリヤ13:7)』と。
あと、あえて挙げるとしましたら、イザヤ書53章の「悲しみのメシヤ預言」であるかと思われます。また、ダビデによる詩篇22篇は、まさに「十字架」の場面が描かれています。しかし、主イエスを捕らえに来た、民の長老たちや祭司長たちには、その言葉の意味は全く理解出来なかったのです。
この時、十一弟子たちは、主イエスを見捨てて、皆逃げてしまいます。昨日学びましたように、青年ヨハネ・マルコも、身につけていた一枚の白い布を放り出して、裸で逃げてしまいます。
つまりイスカリオテのユダだけが裏切り者ではなく、他の弟子たちも実は、同じ穴のむじなであったことになります。
この時こそ、父なる神様が定められた時であったのです。それまでは、いかにパリサイ人や律法学者たち、そして民の長老たちや祭司長たちが、主イエスを捕らえようとしても、圧倒的な守りの故に、手を出すことは出来ませんでした。
しかし、この時は違います。まさにベールが剥がされたように、彼らはいとも簡単に、主イエスを束縛することが出来たのです。
それは、
『「しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」』と主が言われたように、父なる神様が、悪魔と悪霊どもに、許可を与えたことが分かります。
私たちクリスチャンも同じです。主イエス様が許可されなければ、悪魔と悪霊どもは、「神のこども」とされた私たち一人一人に、決して触れることは出来ません。》