• 日々のみ言葉 2022年3月1日(火)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2022年3月1日(火)

    ◎聖書箇所【マタイの福音書27章39節~43節】
    27:39 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
    27:40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
    27:41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちと一緒になって、イエスをあざけって言った。
    27:42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
    27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『私は神の子だ。』と言っているのだから。」

    ◎ショートメッセージ
    《金曜日、「過越の祭り」が始まる前日のことです。主イエスと一緒に、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられ、ゴルゴタの丘に立てられました。
     特に、主イエスは、ゲッセマネの園で捕らえられてから、わずか9時間以内に、死刑が宣告され、そして、「ローマ帝国反逆罪」として、異邦人の手によって、十字架につけられたのです。
     何と言う急ぎの、しかも手抜きの裁判と判決であることでしょうか。しかし、この事においても、神様の深い摂理が働いていた事は言うまでもありません。
     主イエスは、まことに「最後のいけにえ」として、すなわち傷の無い「神の小羊」として、屠られることになるのです。そしてこれは、過越の祭りの第一日の時に、捧げられることになります。実際の過越は、この後の午後6時からの、大いなる安息日から始まります。それまでに、ユダヤの指導者たちは、主イエスを死刑にし、そして埋葬し、安心して「過越の食事」を取る為に、このような熾烈な仕業を仕組んだと言うわけです。

     彼らの計画は、まんまと成功しました。しかし、主イエスが十字架に掛けられることは、遙か大昔から、すでに定められていたのです。神の御子の十字架こそが、私たち人類の罪を贖うことが出来る、唯一の方法であったからです。

     さて、『道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしった。』とあります。と言うことは、ゴルゴタの丘の側に、街道があったことになります。
     ローマ帝国にとって、十字架刑は、まさに見せしめでありましたから、人々の目に留まる場所に、その刑場が設けられていたに違いありません。もし、その側に街道がなかったとしたら、わざわざ遠回りして、死刑場に見に行く者がいるでしょうか。しかも血なまぐさく、死臭の漂う所へ。それゆえに、公道の側に、ゴルゴタが存在していたことは、間違いありません。

     ところで、「首を振る」と言うことはどういうことなのでしょうか。それは、否定することであり、また自分とは何の関係も無いことの表われでもあるのです。
     しかし、紛れもなく主イエスの十字架こそ、道行く人々にとって、そしてすべての人々にとっては、最も関係がある出来事なのです。

     今から二千年前に、この十字架の出来事は、遠いエルサレムの国において、歴史上、事実として起こったことです。そして、その関係性は、今生きている私たち日本人にとっても、問われるものであるのです。明日も同じ箇所からとなります。》

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