• 2022年2月27日礼拝メッセージの概要

    ◎本日の聖書箇所【使徒の働き15章6節~12節】(新約聖書p.264下段右側)
    15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
    15:7 多くの論争があった後、ペテロが立って彼らに言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音の言葉を聞いて信じるようにされました。
    15:8 そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。
    15:9 私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめて下さったのです。
    15:10 そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。
    15:11 私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」
    15:12 すると、全会衆は静かになった。そして、バルナバとパウロが、神が彼らを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議について話すのに、耳を傾けた。

    ◎メッセージ【シモン・ペテロの発言(第一回エルサレム教会会議その②)】
    《第一回教会会議がエルサレムにおいて開かれました。この時、各地方に散らばって伝道もしくは、主イエスの証人として教えていた使徒たち全員が戻って来ていました。
     この当時、使徒たちはエルサレム教会を起点として、ユダヤ地方の多くの教会を輪番で回っていたと言われています。そうなりますと、普段の教会を守り導く指導者が当然のごとく必要となります。それゆえ使徒たちは、各々の教会に最も適任なる者を聖霊と共に選び、按手して長老に任命したのです。使徒パウロとバルナバも、南ガラテヤ地方での伝道において新しく誕生した教会に、長老たちを任命しました。
     さて、「多くの論争があった後」とルカは書き記していますが、詳細は分かりかねますが、おそらく以前はパリサイ人や律法学者であり、主イエスの恵みによって救われた者たちの中から選ばれた長老たちが、自分たちの立場から弁明したと思われます。 それに対して、使徒たちのほとんどは、失われたユダヤ人たちに遣わされている者であった為、余り反論はしなかったに違いありません。そこに、会議を正常の方向に、また解決に向けて、シモン・ペテロが発言したと言うのが、今日の場面となります。
    『「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音の言葉を聞いて信じるようにされました。そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめて下さったのです。」』と。
     これは、カイザリヤにおける「イタリア隊百人隊長コルネリウス」とその家族および知人たち全員の救いのことを証言しています。
     この奇跡を直に見たのは、シモン・ペテロだけではありません。ヨッパにいた、主にある兄弟たち6人も目撃しています。そしてその証人たちと、後にペテロはエルサレム教会に報告の為に戻ることになります。さて、ペテロは、発言を続けます。
    「そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」
     ところで、なぜペテロは、このように素晴らしい発言が出来たのでしょうか。以前彼は、アンティオキアにおいて、エルサレムから「割礼派」の長老たちが下って来た時に、彼らを恐れて異邦人から離れたことがありました。パウロは、直接、皆の面前でペテロを叱責します。そのことが、ガリラヤ書に書き記されています。
    『ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。』と。
     ペテロは、かつてのエルサレムの迫害者であったサウロ叱責を受け入れたのです。彼は悔い改めたのです。しかし、これは簡単なことではありません。
     確かにサウロは、エルサレム史上最高のラバン「ガマリエル」の弟子でした。ですが、主イエスによって、任命された使徒のリーダー、ペテロにとっては不愉快極まりない叱責であったに違いありません。
     しかし、ペテロは、「三度主を否定」したことから、徹底的に砕かれていたからこそ、受け入れられたのです。人は、目上の者からの忠告や叱責は受け入れやすいものですが、目下の者からと言うと、そうではないのです。
     私たちクリスチャンは、じっくりと心の耳と体の耳を傾けて、聴く者でありたいと思います。パウロは勧めます。
    『何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。』と。》

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