• 2022年7月10日礼拝メッセージの概要

    ◎本日の聖書箇所【使徒の働き18章1節~5節】(新約聖書p.271下段左側)
    18:1 その後、パウロはアテネを去ってコリントに行った。
    18:2 そこで、ポントス生まれでアキラという名のユダヤ人と、彼の妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じたので、最近イタリアから来ていたのである。パウロは二人のところに行き、
    18:3 自分も同業者であったので、その家に住んで一緒に仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。
    18:4 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人を説得しようとした。
    18:5 シラスとテモテがマケドニアから下って来ると、パウロはみ言葉を語ることに専念し、イエスがキリストであることをユダヤ人たちに証しした。

    ◎メッセージ【アキラとプリスキラ】
    《パウロは非常に短いアテネ伝道を終えると、コリントにやって来ました。コリントとは、ローマ帝国アカヤ州の首都であり、地方総督が在住していました。町はアクロコリント(566m)の山すそにあり、山頂にはアフロディト(愛の女神)の神殿がありました。そこでの神殿売春は多くの人と富を引きつけていたのです。最盛時には自由民20万人と50万人の奴隷がおり、ローマ人とギリシヤ人の他に、かなりの数のユダヤ人も居住していたのです。パウロは、そこでポントス(黒海沿岸地方)生まれでアキラという名のユダヤ人と、彼の妻プリスキラに出会います。
     聖霊が降られた日に、ヨハネ・マルコの家において、弟子たちが様々な外国語で神様を賛美している様子を見た者の中に、ポントス生まれの者たちがいました。
     その日には何と、三千人もの兄弟が教会に加えられたのです。ポントスから来た者たちは故郷に戻り、早くから教会が存在していたと言われています。そこでアキラとプリスキラは、信仰を持ち、それからローマに渡ったのではないでしょうか。
     紀元49年のことです。当時のローマ帝国第4代目の皇帝クラウデオ(クラウディウス)が、「クレストゥスの指導のもとに、絶えず反乱を起すユダヤ人を、ローマから追放した」のです。それは、パウロが二人に出会う約一年ほど前のことでした。
     パウロがコリントを訪れたのは、紀元50年頃のことです。もしカイザルによって、「ユダヤ人追放令」が発令されなければ、アキラとプリスキラは、コリントにおいてパウロと出会うことはなかったのです。
     また、この二人は、結構商売が繁盛していたようです。ローマには本店が残されていたと推測されますが、コリント支店に、ほとぼりが冷めるまで、取りあえず、移って来たと言う所でしょう。しかも、天幕造りの同業者であったことは、あまりにも出来すぎな感じが否めません。しかし、これこそが神様の本領発揮なのです。パウロは、二人の家で天幕造りをして働き、そして安息日には、ユダヤ人の会堂に行って、福音を伝えたのです。そうこうしているうちに、シラスとテモテが追いついて来ます。
     シラスとテモテは、伝道旅行の旅費を預かっていたようです。それゆえ、パウロは、天幕造りを一時中断して、伝道に励みます。パウロは、次の様に述べています。
    『神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。』と。
     このみ言葉が実現したからこそ、パウロはアキラとプリスキラに出会えたのです。そして、やがてコリントの町に、神の教会が立つのです。
     私たちの周りで起こっていること、あるいは世界で起こっていることは、決して偶然ではなく、人類の歴史を真に支配しておられるのは、主イエス様なのです。》

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