◇◆◇日々のみ言葉
2022年7月23日(土)
◎聖書箇所【ローマ人への手紙6章14節】
6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
◎ショートメッセージ
《現代訳を掲載します。
『6:14 というのは、罪があなたがたを支配することがないからである。あなたがたはもう律法の奴隷ではなく、救いの恵みに生かされているのである。』
「律法の下」あるいは、「律法の奴隷」とは、どのようなことなのでしょうか。律法は何をもたらしたのかと言いますと、罪とは何であるのか、と言うことです。パウロはこう言っています。
『それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。(ローマ7:7~7:11)』
ここから分かりますように、律法(戒め)があったからこそ、パウロは罪を知ったのであり、それが死に導くものであることを知ったのです。罪の報酬は「血」です。すなわち「命」なのです。
しかし、主イエス様は、律法をすべて守り通され成就されました。それだからこそ、傷のない神の小羊として、ご自身の血と命を捧げられたのです。身代わりとなって。
そして、復活されたことによって、私たちは罪から解放されたのです。罪(律法)の奴隷から解放され、自由とされたのです。
もはや、律法の下ではなく、主イエス様の救いの恵みの中に生かされています。私たちは、自由です。罪を犯さないことも選べますし、また続けて罪を犯すことも選べるのです。
しかし、主イエス様の十字架によって、罪赦された者が、また以前の罪の生活に戻る必要が有ると言うのでしょうか。
「誰もきよくなければ、神様を見ることはできない」のです。私は、主イエス様をこの目で見ることを選んでいます。》