◇◆◇日々のみ言葉
2015年8月26日(水)
◎聖書箇所 【マルコの福音書4章26節~29節】
4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。
4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
◎ショートメッセージ
《「神の国」、その反対語とは何だろうか。
「この世」だろうか。確かに私たちは、今、この世に暮らしている。朝目が覚めると、この世における一日が始まる。私たちは、「この世」この現実の世界で、毎日生活しているのである。
「神の国」あるいは「御国」すなわち「天国」の反対語は、「地獄」「永遠の亡び」である。
この世に生活している多くの人々には、今目の前にある現実だけがすべてであり、「神の国」のことについて、また「地獄」のことについて、考えようともしない。
それらは彼らに取って、おとぎ話の世界、空想の世界、すなわちファンタジーの世界の話であり、あまつさえ夢物語でもある。
多くの人々は言う。「『天国』あったら良いけれど。『地獄』あったら怖いけれど。でも大丈夫。人間死んだら、それでおしまい。何もかもなくなってしまうんだから、いいんだよ。」
何とおろかなことであろうか。聖書は、はっきりと「神の国」そして「地獄」があることを、教えているにも関わらず。
「神の国」の種は、すでに蒔かれている。誰によって。主イエス・キリストによってである。主イエスは、弟子たちに、このように約束された。
『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、私は場所を備えに行くのです。
私が行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたを私のもとに迎えます。私のいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネの福音書14:1~14:3)』
もうすでに、主イエスは、場所を備えられたと、私は確信している。あとは、いつ私たちを迎えに来られるかである。世界の畑は、今、黄金に色づいている。
やがて「収穫の時」がやって来る。近い将来、必ず「収穫の時」が来る。
『イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」(マタイの福音書13:24~13:30)』
「良い麦」は、主イエスの倉に収められる。主イエスを信じた人は、「神の国」に入れられる。しかし「毒麦」は、集められ束にされ、やがて燃やすために、火の中に投げ込まれる。主イエスを信じようとしない人は、燃える「地獄」の炎の中に投げ込まれるのである。
「神の国」は、ある。存在する。「地獄」は、ある。存在する。
その人の心臓が止まった瞬間、その人は、まだ自分が存在することを知る。「死んだらおしまいだよ。」、と言っていた人が、自分という存在が、意識が、感覚が、まだ存在していることを知るのだ。
しかし、もしその人が救われていたとしたら。「神の国」の一員であったとしたら。
その人の、この世における最後の瞬間が近づきつつある。心臓が、鼓動を止める時が。その時に、主イエスが迎えに来られるのである。そして、その人の肉体の心臓が鼓動を止める、まさにその瞬間に、主イエスが、その人の手を取られて、本当のその人そのもの存在である「霊」を引き上げられるのだ。そして、その人は、主イエスと共に、天に上り「神の国」に行くこととなる。
一人でも多くの人が、亡びることなく、「神の国」に入れられることこそが、主イエスの、そして私たちクリスチャンの願いである。
主イエスを信じない人々の心臓が止まった瞬間には、もう手遅れなのだ。その人は、悲しいかな、残念ながら「地獄」つまり「永遠の亡び」に行くことになってしまう。
友よ。収穫の時は近づいている。だが、まだ時間は僅かながら残されている。日本に、本物の大リバイバルが来ることを、真剣に祈り求めようではないか。》