◇◆◇日々のみ言葉
2023年11月6日(月)
◎聖書箇所【マルコの福音書11章15節~17節】
11:15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、
11:16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。
11:17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」
◎ショートメッセージ
《現代訳を掲載します。
『11:15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは神殿にはいり、神殿の中で売り買いしている者たちを皆追い出し、両替屋の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを押し倒された。
11:16 また、神殿を通り抜けて、器物を運ぶことを、だれにもお許しにならなかった。
11:17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての国の人々の祈りの家と呼ばれる。』と旧約聖書に書かれているのに、お前たちは、それを強盗の巣にしてしまっている。」』
マタイの福音書では、この二度目の「宮清め」は、エルサレム入場されたその日に、主イエス様が行なわれたこととして、書き記されています。
しかし、マルコの福音書では、その日ではなく、次の日の朝に行なわれたことになっています。
どちらが正しいのでしょうか。しゅろの日曜日なのか、それとも次の日なのでしょうか。聖書は誤りなき神の言葉であるはずなのに、なぜ時制が異なっているのでしょうか。
このことに関して、尾山令仁先生は、このように答えられました。「四つの福音書は、四人の人格を用いて聖霊様が書かれたのです。よって、見る人の位置関係において、若干異なるのです。例えば、ある人の顔があるとします。一人は前から見ます。次の人は右横から、その次の人は左横から、そして最後の人は、真後ろからとします。同じ人の顔であり頭なのですが、違っているわけです。しかし、その顔の持ち主は、ただ一人なのです。」と。
また、「大切なことは、枝葉ではなく、その幹です。違っているからこそ、真実だと言うことが分かるのです。」とも言われました。
よって結論ですが、前の日の夕方であろうと、次の日の朝であろうと、この時、主イエス様は、「宮清め」を行なわれたことが、重要であり事実なのです。》