• 2023年11月5日礼拝メッセージの概要

    ◎本日の聖書箇所【ルカの福音書2章40節~52節】(新約聖書p.112上段左側)
    2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。
    2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。
    2:43 そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、
    2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、
    2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。
    2:46 そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
    2:47 聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
    2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」
    2:49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」
    2:50 しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。
    2:51 それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
    2:52 イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。

    ◎メッセージ【少年イエス】
    《イエス様が、どのようなお方であるかということは、私たちクリスチャンにとって、またすべての人類にとっても重要なことです。しかし、イエス様のご降誕と、東方の三博士たちの訪問から、約三十歳になって、メシアとして公生涯の働きをされるまでの約三十年間については、主イエス様が十二歳の時の出来事が、聖書においては唯一の記録となります。
    『さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。』
     申命記によりますと、『あなたのうちの男子はみな、年に三度、種なしパンの祭り(過越の祭)、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主が選ばれる場所で御前に出なければならない。』と定められています。
     しかし、遠くにいる人々が、年に三回もエルサレムに来るということは、非常に大変なので、この頃には、過越の祭にだけ巡礼に来るようになっていたようです。
     ヨセフもそうしていたようですし、さらに女子も同行するようになっていたようです。よって、この時には、ヨセフだけではなく、マリアも同行していたのです。
     また、ユダヤ教の「ミシュナー」によれば、「ユダヤでは、十三歳に男子はバル・ミツバを受けて成人式を迎えるから、十二歳までに父親はその子に必要な信仰教育を済ませておくこと」が求められていました。
     それゆえに、十二歳になったイエスを連れて過越の祭を祝うために、ナザレから上って来たのです。
     さて、祭りが終わり、両親は帰路に着いたのに、少年イエスはエルサレムに留まっていたのです。しかし両親はそれに気づかず、少年イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだのです。
     そして、後になって親族や知人の中を捜し回りましたが、見つからなかったので、少年イエスを捜しながらエルサレムまで引き返しました。三日経ってから、ようやく、エルサレムの神殿の中で、少年イエスが宮で、ユダヤ教の教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしているのを見つけたわけです。
     少年イエスとユダヤ教の偉い先生方とのやり取りを聞いていた人たちはみな、少年イエスの、霊に満ちた知恵と答えに驚いていました。ヨセフとマリアも驚いたとあります。
    「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」
    「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」
     少年イエスが語られた言葉を、両親は理解できませんでした。しかし、母マリアはこれらのことをみな、心に留めておいたと言うのです。
     それから少年イエスは、両親と一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた、とあります。そして、神と人とにいつくしまれ、さらに知恵が増し加わり、背たけも伸びていった、とあります。
     大切なことは、私たち男性が生まれた時から、幼子となり、少年となり、思春期を迎えた青年時代を過ごしたように、主は同じ道のりを辿られたと言うことです。》

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