• 2024年1月14日礼拝メッセージの概要

    ◎本日の聖書箇所【マタイの福音書6章31節~34節】(新約聖書p.11上段左側)
    6:31「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
    6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
    6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
    6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

    ◎メッセージ【2024年標題聖句から(神の義)】
    《先週は「神の国」について考えて見ました。今回は「神の義」について考えて見ましょう。
     聖書ははっきりと、パウロを通して語っています。
    『私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ3:9後半~3:12)』と。
     そして聖書は、『人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている(ヘブル9:27)』ことを明確に教えています。それだからこそ、人間には「救い主」が必要なのです。
     パウロは、ローマ人への手紙において、「神の義」について、分かりやすく説明しています。『もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。 
     こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。』
     最初の人であるアダムとエバによって、すなわち一人の違反によって、罪と死が入って来ました。しかし、一人の人の義の行為によって、すなわち主イエス様の「十字架」の身代わりの死によって、人間に義が入って来たのです。
     主イエスを信じる者には、神の義が与えられます。それは、父なる神様が私たち一人一人をご覧になられる時に、私たち自身そのものを見るのではなく、私たちの前に立たれた「主イエスの十字架」を通してご覧になられると言うことなのです。主イエス様の十字架こそが、「神の義」を与えて下さるのです。そして、それは「永遠のいのち」にまで、導いて下さいます。
     ところで、なぜ主イエス様は、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」と言われるのでしょうか。これは、「もとめ続けなさい」と言う意味でもあります。
     なぜなら、私たちは、まだ「神の国」に到達してはいないからです。私たちは、まだこの世におかれています。それは、先に救われた者として、主から与えられた使命と、復活の主の証人として、この地上に留め置かれているからです。
     使徒ヨハネは、晩年に書き記した第Ⅰの手紙において、このように勧めています
    『あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみ心を行なう者は永遠に生き続けます。』と。
     この世の支配者である「悪魔」は、私たちの「義」を奪おうとして躍起になって攻撃して来ます。私たちの「義」とは、主イエスに対する信仰です。信仰こそが私たちを救いに導くのです。
     パウロは、このように言っています。
    『競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。』と。
     私たち、主イエスを信じる者は、この世においては「旅人」です。私たちの為に、今も主が用意されておられる「天の御国」の住まい、そこに入ることを願い、求め続けるのです。そして、主イエス様の十字架によって、義人とされた「神の義」を、すなわち「信仰」に留まり続けるのです。十字架こそが、私たちの「勝利の御旗」であり、また「力」なのですから。》

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