◇◆◇日々のみ言葉
2024年5月5日(日)
◎聖書箇所【第Ⅰコリント人への手紙1章22節~25節】
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
◎ショートメッセージ
《現代訳を掲載します。
『1:22 ユダヤ人はそのメッセージが真実である証拠としての奇跡を要求し、ギリシヤ人をはじめ文明人は、理性で納得できるものを要求する。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える。それは、ユダヤ人にとってはつまずきの石となり、ギリシャ人をはじめ文明人にとっては、ばかばかしいものかもしれないが、
1:24 神によって、救いに入れられた者たちにとっては、ユダヤ人でもギリシヤ人でもすべて、キリストは神の力であり、神の知恵にほかならない。
1:25 というのは、人の目から見て愚かに見えるこの神の救いは、人間の知恵よりはるかに賢いものであり、人の目から見て弱々しく見えるキリストの十字架上の死という出来事は、どんな人間よりもはるかに強いからである。』
この箇所は、まさに現代訳の方が、パウロの言いたかったことを明確にしていると思われます。
ユダヤ人は、主イエスの公生涯においても、しるしを要求して来たのです。しかも、イザヤ書に書かれているメシアとしてのしるしを目の当たりに見たとしても、信じようとはしませでした。
また、哲学好きなギリシャ人は、理性で納得しなければ、信じようとはしないのです。要するに、自分たちの常識の範囲しか、受け入れないということです。よって、奇跡などは信じませんし、また受け入れようとはしません。
日本の多くの人々は、まさにギリシャ人と同じです。つまり文明人は、なかなか奇跡を認めようとはしないのです。明日も同じ箇所からとなります。》