◎本日の聖書箇所【ルカの福音書6章6節~11節】(新約聖書p.120上段真中)
6:6 別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに右手の萎えた人がいた。
6:7 律法学者たちやパリサイ人たちは、イエスが安息日に癒やしを行なうかどうか、じっと見つめていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。
6:8 イエスは彼らの考えを知っておられた。それで、手の萎えた人に言われた。「立って、真ん中に出なさい。」その人は起き上がり、そこに立った。
6:9 イエスは彼らに言われた。「あなたがたに尋ねますが、安息日に律法にかなっているのは、善を行なうことですか、それとも悪を行なうことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。」
6:10 そして彼ら全員を見回してから、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、手は元どおりになった。
6:11 彼らは怒りに満ち、イエスをどうするか、話し合いを始めた。
◎メッセージ【愛の人・主イエス】
《ルカは、別の安息日と言っています。前回の麦畑の時から、1・2週間後のことで、場所は、同じくカペナウムの会堂だと思われます。そこに、「右手の萎えた人がいた」のです。
この人は、カペナウム在住の者ではなく、パリサイ人たちや律法学者たちが、あえてここに連れて来たと考えられます。
しかも、「律法学者たちやパリサイ人たちは、イエスが安息日に癒やしを行なうかどうか、じっと見つめていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。」と、なっています。また、「イエスは彼らの考えを知っておられた」のです。
さて、この記事は、共観福音書のすべてに記載されています。よって、とても重要な出来事であることが分かります。マタイの福音書には、主のたとえ話が書き記されています。
「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」と。
実は、この「羊」こそ、私たち一人一人を象徴しています。私たちは、穴に落ちていたのですが、主がつかんで引き上げて下さったのです。
さて、主イエスは、手の萎えた人に言われました。
「立って、真ん中に出なさい。」と。
これは、本人にとっては「見世物」にされることです。もし、いやされなかったとしたら、それこそ笑いものです。
主は、パリサイ人たちや律法学者たち全員を見回してから、その人に言われます。
「手を伸ばしなさい」
萎えた手を伸ばすことは、出来ないことなのです。しかし、彼は主の言葉に従い、手を伸ばそうとしました。人々の目は、その手に集中します。
すると、見る見るうちに、その手は元通りになったのです。もし、「手の萎えた人」が主の言葉に従わなかったとしたらどうでしょうか。申命記には、次のように書かれています。
『祝福とは、私が今日あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従った場合である。』と。
彼は、信仰を持って起き上がり、人々の真ん中に進み出て、主イエスが言われた通り、手を伸ばそうとして行動した時に奇跡が起こりました。
これは、間違いなく、主イエスがメシアとしての栄光を、現わされたのです。
また、この手の萎えた人は、私たち一人一人をも指しています。なぜなら、私たちこそが主の証人だからです。主は、私たち一人一人を用いて、ご自身の栄光を現わされることを願っておられます。そして、まだ主を知らない人々が、私たちに起こった奇跡を見て、救い主を信じ救われ、永遠の命を持つようになる為なのです。》