◇◆◇日々のみ言葉
2024年9月3日(火)
◎聖書箇所【第Ⅰコリント人への手紙9章1節~2節】
9:1 私には自由がないでしょうか。私は使徒ではないのでしょうか。私は私たちの主イエスを見たのではないでしょうか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。
9:2 たとい私がほかの人々に対しては使徒でなくても、少なくともあなたがたに対しては使徒です。あなたがたは、主にあって、私が使徒であることの証印です。
◎ショートメッセージ
《昨日と同じ箇所からとなります。再度となりますが、現代訳を掲載します。
『9:1 私は使徒であり、どんなことにも拘束されない自由な者である。また、実際この目で主イエスにお会いしたものである。そして、あなたがたは私が主の働きをした結果、救われた人たちである。そうではないだろうか。
9:2 たとい、他の人たちが私を使徒と認めなかったとしても、あなたがたにとってはそうではないはずだ。あなたがたこそ、私の伝道によって救われた人たちなのだから、私の使徒職を立証する人たちである。』
当時のエルサレム教会は、主の兄弟ヤコブ、そして十二使徒のリーダーであるシモン・ペテロ、ゼベダイの子ヨハネによって、導かれていました。パウロが伝道旅行を行なう前に、ゼベダイの子ヤコブは、すでにヘロデ・アグリッパ一世によって殉教していたのです。
そして、使徒と言えば、主イエスが選ばれた十二使徒を指していることは、エルサレム教会の共通理解であったのです。
主イエス様は、十二使徒をユダヤ人の為の使徒として選ばれました。よって、パウロが自分自身を使徒として名のることに、エルサレム教会の多くの兄弟姉妹にとっては、赦しがたいことであったに違いありません。なぜなら、サウロはエルサレム教会を迫害し、多くのクリスチャンを捕らえ、また死罪に定めたからです。
そんな大罪を犯した者を、どうしてエルサレム初代教会の兄弟姉妹が赦せると言うのでしょう。彼らの中には、肉親の者や知人・友人を、サウロによって失った者たちも多くいたに違いありません。
しかし、主イエスは、サウロを異邦人の為の使徒として選ばれたのです。しかも、パウロは、「この目で主イエスにお会いした」ことを、はっきりと告白しています。
ユダヤ人たちに取っては、彼は使徒では有りませんでしたが、異邦人に取っては紛れもなく使徒であったのです。そのことを、コリント教会が存在することによって、証明していることを、パウロは明確にしているのです。》