◇◆◇日々のみ言葉
2015年10月13日(火)
◎聖書箇所 【マルコの福音書6章39節~40節】
6:41 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。
◎ショートメッセージ
《『するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」
イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。 (マルコの福音書6:38~6:40)』
この時の季節は青草が生い茂ったいたことから、春から夏にかけての頃であったと思われる。日も暮れ、辺りはかなり暗くなって来たが、人々は弟子たちの指図に従い、百人、五十人と固まって席に着いた。この「席についた」という訳は、今一つおかしな訳である。群衆は草の上に固まって座ったのであって、今のようにテーブル席に着いたわけではない。もちろん彼らは、座布団や、運動会の時に敷くゴザなどは持ち合わせてはいない。直に草の上に、ただ座ったのであった。
さて、この時、主イエスには、実際に何人の弟子たちがいたであろうか。やがて主イエスは、60名の他の弟子たちをも遣わすこととなる。その数であるが、別の写本では72人となっている。と言うことは、十二使徒と、新たに60名の弟子たちを、病気のいやし、悪霊追い出し、そして死人の生き返らせの働きに、送られることになる。
とすれば、この「五千人の給食」の奇蹟の時には、すでにこの60名の弟子たちは、主イエスと共に行動していたはずである。
この奇蹟は、確かに空腹となった群衆の人々に、「肉の糧」を与えて、満足させ、力づけるものであったが、本当の真意は、十二使徒と弟子たちに、大切なことを教えるために、主イエスがなさったのである。
まず、主イエスは、少年が持って来ていた当時の一般的な「お弁当」を、両手に取られ、天を見上げられた。これは、父なる神に感謝を捧げられたのである。同じようなことをされた時がある。それは、主イエスが、愛されたラザロが葬られている墓の前に立たれた時である。その後ラザロは生きて墓の中から出て来ることになる。
私たちは、まず始めに感謝を捧げるべきである。朝起きた時、また夜寝る時、その日に起こった様々な出来事に対して感謝を捧げるべきである。感謝よりも不平不満が先に出てしまうのが、私たち人間である。
「獄中の賛美」シリーズを執筆したマーリン・キャロザース師は、どんな時であっても主を誉め称えることを、勧め教えている。それが賛美の力であると言うのだ。
さて、主イエスは、パンを割きはじめられた。そして人々に配るように弟子たちに与えられた。
先ほどにも書いたように、十二使徒だけでは、男と女と子どもをあわせて、おそらく二万人以上はいた人々に、配るには物理的に無理があったと思われる。それだからこそ、他の60名の弟子たちが、十二使徒と共に配ることを手伝ったと考えられる。
この時、主イエスは、十二使徒だけを呼ばれたのであろうか。また他の60名の弟子たちは、何もしないで、ただぼーっと、つっ立っていて見ていてだけであろうか。
そんなことはあり得ないことである。
主イエスと人々との間を、パンと魚を持って走り回る弟子たちは、本当に大変だったはずである。しかし一番大変な思いをされた方を、私たちは忘れてはならない。
それは主イエスである。主イエスだけが、パンを割き、魚を割かれたのだ。この奇蹟は、弟子たちには、分与されてはいない。弟子たちの手を借りてはいない。
つまり、この奇蹟を起こされたのは、すべて主イエスの手によってなのである。主の手によらなければ、パンも魚も増え続けなかったのだ。
一体、主イエスは、何万回、パンと魚を割かれたのであろうか。肉体的には限界だったはずである。
主イエスは、ご自身に従う者、ご自身を信頼し信じる者に、まさしく「肉の糧」を用意され、お与えになられる。
それゆえ「主の祈り」を教えられた。『我らの日用の糧を今日も与えたまえ。』
父なる神は、主イエスの御名によって、私たちに「肉の糧」を与えてくださるのである。》