◇◆◇2025年1月26日 第四主日礼拝メッセージ
※本日の聖書箇所(ルカの福音書8章19節~21節)新約p.128上段右側
8:19 さて、イエスの所に母と兄弟たちが来たが、大勢の人のためにそばに近寄れなかった。
8:20 それでイエスに、「母上と兄弟方が、お会いしたいと外に立っておられます」という知らせがあった。
8:21 しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「私の母、私の兄弟たちとは、神の言葉を聞いて行なう人たちのことです。」
◎メッセージ【神の家族とは?】
《この記事は、三つの共観福音書に掲載されています。マルコは、『「さて、イエスの母と兄弟たちがやって来て、外に立ち、人を送ってイエスを呼んだ。大勢の人がイエスを囲んで座っていた。彼らは「ご覧ください。あなたの母上と兄弟姉妹方が、あなたを捜して外に来ておられます」と言った。すると、イエスは彼らに答えて「私の母、私の兄弟とはだれでしょうか」と言われた。そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。私の母、私の兄弟です。だれでも神のみ心を行なう人、その人が私の兄弟、姉妹、母なのです。」』となっています。ここから、主イエスは、弟子たちと共に、シモン・ペテロの家の中にいることが分かります。大勢の人々が押しかけていて、主の家族は中にはいれないのです。それゆえに、使いの者をよこします。
ところで、なぜナザレからカペナウムに、主の家族全員がやって来たのでしょうか。その理由は書かれてはいませんから、推測するしかないのですが、パリサイ人や律法学者たちは、「イエスは汚れた霊につかれている」という見解でしたから、ナザレの故郷の人々が、主の母マリアに「イエスを迎えに行ってナザレに連れ戻した方が良い」と言うアドバイスをしたのではないかと、私は考えています。
主イエスは長男でしたが、その下に、ヤコブ・ヨセ・ユダ・シモンと言う四人の弟がおり、あと二人以上の妹たちがいました。この時、主の弟たちと妹たちは、誰も信仰を持っていないのです。また、母マリアも、まだ主と行動を共にしてはいません。よって、このことが起こったのは、公生涯における初期の段階であったことが分かります。
『「私の母、私の兄弟たちとは、神の言葉を聞いて行なう人たちのことです。」』と主は言われます。ここから、「神の家族」とは、霊的なつながりによって成り立っている家族であることが分かります。
ところで、主イエスは、血のつながったご自身の家族をないがしろにされたのでしょうか。いいえ、違います。主イエスは、母マリアの罪の為にも、弟たちの罪の為にも、そして妹たちの罪の為にも、身代わりとなって十字架に掛かられたのです。
聖書には書かれてはいませんが、私は、主イエスは十字架から三日目によみがえられ、母マリアに、そして弟と妹たちに、生きておられるその姿を現わされたのではないかと信じています。
なぜなら、「使徒の働き」には、信じがたいことが書き記されているからです。『彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちと共に、いつも心を一つにして祈っていた。(使徒1:14)』と。
主の十字架刑の時には、故郷ナザレで震えおののいていた弟と妹たちのこの激変は、復活の主に出会った以外には考えられないからです。主は、弟子たちを愛しておられましたが、ご自身の家族をも心から愛しており、また非常に大切にされたお方なのです。
使徒パウロは、シラスと共に捕らえられ牢獄に入れられた時、自害しようとした看守に叫びます。
『「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)』
この約束を信じた看守に、このみ言葉が成就し、家族全員が救われ洗礼を受けたのです。血がつながっている肉なる家族が、霊的においても、主にある家族になったとしたら、何と素晴らしいことでしょうか。私たちは、あきらめることなく、祈り続けるべきなのです。》