• 2025年2月9日礼拝メッセージの概要

    ※本日の聖書箇所(ルカの福音書8章22節~25節)新約p.228上段左側
    8:22 ある日のことであった。イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちは舟を出した。
    8:23 舟で渡っている間に、イエスは眠り始められた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、彼らは水をかぶって危険になった。
    8:24 そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。
    8:25 イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」

    ◎メッセージ【ガリラヤ湖の嵐を静める主イエス】
    《ルカは、「ある日のこと」としていますが、マルコは、「その日」となっています。つまり「種蒔く人のたとえ」を群衆に話され、それからおそらくシモン・ペテロの家において、弟子たちと夕食を共にし、「種蒔く人のたとえの解き明かし」をされた後、カペナウムからガリラヤ湖の向こう岸の地に渡ろうとしたことが分かります。
    舟で渡っている間に、イエスは眠り始められました。そこに事件が起こります。すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになったのです。
    十二弟子たちは何とかして、自分たちと主の命を救おうと、一生懸命に舟から水を掻き出します。彼らも、そして主イエスもずぶ濡れになったはずです。しかし、それでも主イエスは、ぐっすりと寝込んでいたのです。
    これは、ヨナと同じことが繰り返されたと考えられます。ヨナを乗せたタルシシュ(スペイン)行きの舟が、激しい暴風に見舞われて難破しかけた時、ヨナは船底で、ぐっすり眠っていたのです。
    それに気づいた船長がヨナを起こしに行きます。この時には、ヨナを海に投げ込むことによって、嵐は一瞬にして収まります。
    その後、ヨナは三日三晩大きな魚の腹の中にいることになります。これは十字架を予表しています。また今回の出来事は、詩篇詩篇107篇にも預言されています。
    『船に乗って海に出る者大海で商いする者。彼らは見た。主のみわざを深い海でその奇しいみわざを。主が命じて激しい暴風を起こされると風が波を高くした。彼らは天に上り深みに下りそのたましいはみじめにも溶け去った。彼らは酔った人のようによろめき知恵はことごとくのみ込まれた。
    この苦しみのときに彼らが主に向かって叫ぶと主は彼らを苦悩から導き出された。主が嵐を鎮められると波は穏やかになった。波が凪いだので彼らは喜んだ。主は彼らをその望む港に導かれた。』と。
    この嵐は、主イエスご自身が引き起こしたのです。
    「先生、先生、私たちは死んでしまいます。」
    主イエスは、その声を聞いて起き上がります。
    「黙れ。静まれ。」
    すると、一瞬にして凪ぎになったのです。驚き恐れている弟子たちに主は言われます。
    「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」
    「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」
    この質問の答えは、後に同じような状況を通して与えられます。しかも、その時には弟子たちだけを先に行かせます。そして、真夜中に、主は水の上を歩いて弟子たちの所へやって来るのです。その時、シモン・ペテロも水の上を歩きます。
    そして二人が舟に乗り込むと、舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です。」と言って、主を礼拝します。これが答えなのです。
    「いったいこの方はどういう方なのだろうか。」
    この質問はすべての人々に対して投げかけられています。つまり、その人と主イエスとの関係性が問題なのです。
    この世の多くの人々は、主イエスがどのような人物であるのかを、歴史や宗教、あるいは考古学から知識としては知っています。しかし、知識で知っていることと救われて生まれ変わることとは、天地の差ほどの雲泥の違いがあるのです。
    救いとは、主イエス様ご自身に個人的に出会うことです。私の人格が、主と言うお方の人格と交わることです。あなたにとって、このお方は、いったいどんなお方なのでしょうか。》

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