※本日の聖書箇所「ルカの福音書8章40節~48節」(新約p.129下段右側)
8:40 さて、イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたのである。
8:41 すると見よ、ヤイロという人がやって来た。この人は会堂司であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した。
8:42 彼には十二歳ぐらいの一人娘がいて、死にかけていたのであった。それでイエスが出かけられると、群衆はイエスに押し迫って来た。
8:43 そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた。
8:44 彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。
8:45 イエスは、「私にさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。大勢の人たちが、あなたを囲んで押し合っています」と言った。
8:46 しかし、イエスは言われた。「だれかが私にさわりました。私自身、自分から力が出て行くのを感じました。」
8:47 彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、イエスにさわった理由と、ただちに癒やされた次第を、すべての民の前で話した。
8:48 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
◎メッセージ【長血をわずらった女性】
《さて、主イエスと十二弟子たちは、ガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサの町からカペナウムに戻って来ました。すると主イエスを迎えでようと、多くの群衆がすでに集まっていたのです。
群衆は皆、主イエスを待ち望んでいました。なぜなら、カペナウムのユダヤ人の会堂の管理人であるヤイロが、緊急な問題をかかげ、主イエスを捜し待ち望んでいたからです。
当時のユダヤにおいて、会堂管理人の地位は、最高法院議員にも劣らぬものでした。
「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやって下さい。」
そこで、主イエスはヤイロと一緒に向かわれたのです。すると大勢の群衆が主イエスについて来て、主イエスに押し迫りました。
その時、そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいて、「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と信じ、後ろから主イエスの衣の房に触れたのです。すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことを体に感じたのです。
主イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて、「だれが私の衣にさわったのですか」と尋ねたのです。
「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれが私にさわったのか』とおっしゃるのですか。」
「だれかが私にさわりました。私自身、自分から力が出て行くのを感じました。」
主イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされたのです。彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、イエスにさわった理由と、ただちに癒やされた次第を、すべての民の前で話しました。すると主は彼女に言われたのです。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。」
主が彼女をいやして下さったことは紛れもない事実ですが、こちら側の態度と信仰に、いやしと救いの条件があるということです。
私たちは、どれほど真剣に主イエスを信じているのでしょうか。またどれほど真剣に、主により頼んでいるのでしょうか。
「安心して行きなさい」
救われた私たちは、神様の子どもとされました。神様が共にいて下さるからこそ安心出来るのです。まさしく、神の国と義を第一にすれば、すべて与えられます。
「苦しむことなく、健やかでいなさい。」
いったい何に苦しむのでしょうか。この女性の場合には、財産をつぎ込んだ医者たちのことではないでしょうか。私たちは、どうしても過去に囚われてしまいやすいのです。後ろを振り返るのでは無く、私たちクリスチャンは前を見るべきです。
「健やかでいなさい。」
これは体のことだけではないのです。私たちの魂の部分も健やかでなければならないのです。それは、過ぎ去ったことを忘れることであり、赦すことであり、今は恵みによって生かされていること、主に守られていることを心から感謝することなのです。》