◇◆◇2025年3月9日 第二主日礼拝メッセージ
※本日の聖書箇所「ルカの福音書8章49節~56節」(新約p.130上段右側)
8:49 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」
8:50 これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」
8:51 イエスは家に着いたが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。
8:52 人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」
8:53 人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。
8:54 しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。「子よ、起きなさい。」
8:55 すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。
8:56 両親が驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。
◎メッセージ【ヤイロの娘の生き返り】
《先々週および先週の続きとなります。この記事は、三つの共観福音書に記載されています。マルコの福音書では、主がヤイロの娘に言われた言葉がアラム語で書き記されています。
「タリタ、クム」旧版では、「タリタ、クミ」となっており、「クミ」は「クム」の命令形です。この意味は「少女よ、あなたに言う。起きよ。」であって、なぜマルコはあえてこのような書き方をしたのでしょうか。
マルコは、アラム語で話すペテロのメッセージを、ギリシャ語に通訳して人々に伝えたのです。『タリタ。クム」と言われた主イエスのお言葉が、非常な権威のもとに、語られたのであって、そのお言葉が、ペテロの霊と魂に深く刻まれたから』と尾山先生は言われています。
会堂司ヤイロは、カペナウムにて主イエスが行なわれた最初の奇跡を直に目撃しています。マルコの福音書によりますと、主イエスはカペナウムの会堂において、安息日に片手の萎えた人を癒されました。
実は、この時の出来事は、主イエスの二回目の御わざであって、一回目は、悪霊を追い出されたのです。しかもその時には、主は会堂において教えておられたのです。出席していた人々は、その教えに驚いたとあります。この時、主に教えを許可したのは、会堂司ヤイロであったことは、十分に考えられることです。
これらの奇跡を目の当たりにし、またカペナウム中の病や悪霊に憑かれた人が皆癒され、解放されたという事実から、すでにヤイロは、主に対する信仰を持っていたと思われます。
「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」
おそらく、ヤイロに仕えている僕が、ヤイロの妻から遣わされてことが考えられます。この時、ヤイロは、「だめだ。間に合わなかった。」と思ったはずです。
そして、次に来るのは自分を責めることです。そして、神様を責めるのです。それから、主イエス様をも責めます。そして最後は、主にいやされた長血の女を責めることになります。
これが、私たちなのです。娘が生きていたならともかく、死んでしまったのなら、もう望みも希望もないと思うのが常識です。しかし主イエスは、超常識なのです。
「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」
私たちは恐れます。聖書には365回「恐れてはならない」と言う言葉が出て来ます。
「ただ信じなさい」
何を信じるのですか。何ではなく。誰を信じるのかと言うことなのです。私たちが信じるお方はただ一人、主イエス・キリスト、このお方だけを、ただ信じるのです。
「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」
それから主は、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に家に入ることをお許しにならず、少女の手を取って叫ばれます。
「タリタ、クミ。」
その時、奇跡が起きます。少女はただちに起き上がり、そして歩き始めるのです。
ヤイロの十二歳になる娘は、主イエスが死から生き返らせた最初の奇跡となります。この出来事を通して、ヤイロと妻はさらなる信仰を持ち、また三人の弟子たちは、主が「命をつかさどるお方」であることを、改めて認識したに違いありません。
私たちは、たとえ何があっても、このお方を信じるのです。このお方に従い、このお方に付いて行くのです。それこそが、私たちクリスチャンが、唯一生きる道なのです。》