※本日の聖書箇所「ルカの福音書9章22節」(新約p.131下段左側)
9:22 そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。
◎メッセージ【第一回目の受難予告】
《主イエス様は公生涯において、三度の「受難予告」をされています。その第一回目の受難予告が、今日の聖書箇所となります。マタイは、「ピリポ・カイサリア」にて行なわれたと言っています。
ルカは省略していますが、マタイでは、シモン・ペテロが主をいさめ、そして主がペテロを厳しくいさめる場面が書き表わされています。
『すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」』と。
伝承では、シモン・ペテロは、主よりも若干年上であったと伝えられています。ユダヤは、年功序列を大切にする国民ですので、もしペテロが、主よりも年下であったとしたら、こんな行動を取ることはなかったと思うのです。主は、厳しくペテロをいさめます。
「下がれ、サタン。あなたは、私をつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
これは、どのような意味なのでしょうか。弟子たちは、まさしく、それぞれが主にお会いしてから、すべてを捨てて従って来ました。
特にペテロは、弟アンデレと共にガリラヤ湖の漁師の網元でしたが、その地位をも手放し、また妻子とも離ればなれになって、主に従って来たのです。主に自分の人生を賭けたのです。
その主が、「エルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから、すなわちサンヘドリンから多くの苦しみを受け、殺される」と言われるのですから、たまったものではありません。つまり、ペテロは、自分のことを思ったのです。決して主を心配したわけではなかったのです。
しかし、これは当然だと思います。弟子たちは、主イエス様のことを、神様が遣わされたメシアであって、神の力により、ローマ帝国を滅ぼし、イスラエルを解放して下さると信じていたからです。この時には、まだ弟子たちの霊的な目は開かれてはいなかったのです。
イザヤ書53章には、「悲しみのメシア預言」が書かれています。そこには、まさしく、メシアなるお方が、身代わりとなって死ぬことが預言されています。
ユダヤ人の会堂シナゴークにおいて、イザヤ書が多く朗読され、メシアを待望していましたが、人々は、また弟子たちでさえ、その奥義と真理を知ることは出来なかったのです。
弟子たちが、聖書と照らし合わせて、そこに書かれた預言が主イエス様によって成就したことを知るのは、聖霊降臨日の後のことです。まさしく、生ける神の言葉は、霊的な言葉であって、御霊によらなければ、人は理解することが出来ないのです。
また、復活の預言は、旧約聖書において、ヨナ書に書かれていると言われています。主イエス様も、このように教えています。
『「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」(マタイ12:39~12:40)』と。
これ以降、弟子たちは、このことについて、あえて、主に尋ねることをしませんでした。なぜなら、恐れていたからです。
三度目の受難予告は、ほぼ十字架刑の直前ですが、二度目は、弟子たちが忘れた頃に、主イエス様はまた預言されることになります。》