• 2025年5月11日礼拝メッセージの概要

    ※本日の聖書箇所「ルカの福音書9章22節」(新約p.131下段左側)
    9:23 イエスは皆に言われた。「だれでも私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、私に従って来なさい。
    9:24 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、私のためにいのちを失う者は、それを救うのです。
    9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。
    9:26 だれでも、私と私の言葉を恥じるなら、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき、その人を恥じます。
    9:27 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

    ◎メッセージ【主イエスに従う人生とは?】
    《「だれでも私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、私に従って来なさい。」
    ここで、主は「十字架」という言葉を用いています。弟子たちは、「十字架」が何であるのかを知っています。それは、ローマ帝国が考えだした最も残酷な刑であって、ローマ帝国反逆罪の者が、その刑に処せられるのです。しかも、処刑される者は、死刑場まで、自分の十字架を担がなければならないのです。弟子たちは、この時、「殉教」することを主が言われたと、思ったようです。
    さて、この時よりも、まだ先になりますが、主イエスが十字架を担いで、ゴルゴタの丘に向かう時に、主の代わりに十字架を担ぐ者が現われます。ローマ兵たちは、通りかかったクレネ人シモンに、イエスの十字架を無理やり背負わせたのです。
    彼こそ、後にアンティオキア教会の重要人物の一人になった「ニゲルと呼ばれるシメオン」と同一人物だと考えられています。彼ほど、主の十字架を担ぐことは、どういうことなのか、身に覚えた人物はいないのではないでしょうか。
    ところで、主イエスの言われた真意は何でしょうか。それは、自己否定のことです。しかも、それを毎日行ない、主に従って行くことを意味しています。
    では、自己否定とは、どのようなことなのでしょうか。それは、主の恵みに委ねた生き方のことです。つまり自己中心的な生き方ではなく、主の為に生きて行くと言うことです。。
    クリスチャンが本当に生き生きとした「生き方」が出来る為には、日々、十字架を背負わなければならないのです。もちろん、私たちの力だけでは出来ないことです。助け主、聖霊様の力をいただかなければ、結局は疲れ果ててしまいます。
    「人は、たとえ全世界を手に入れても自分自身を失ない損じたら、何の益があるでしょうか。」
    この言葉こそ、イエズス会の創始者であるイグナチオ・ロヨラが、同室のフランシスコ・ザビエルを改心させ、救いに導いた確信の言葉であったことは有名です。
    また、主はこのようにも言われました。
    「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」
    私たちは、どちらかに仕えることになるのです。主イエスに従わない者は、皆、この世の富、すなわち「空中を支配する権力者(悪魔)」に仕えていることになります。
    「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」
    この箇所については、多くの説があり議論されて来ましたが、尾山先生は、「教会」を指していると解釈しています。「ここに立っている人たち」とは、今現在の私たちのことなのです。
    次なる預言の成就である携挙は近づいています。しかし、その時が来るまで、私たちは、慌てることなく、騒ぐことなく、主の証人として、証し続けて行こうではありませんか。》

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