• 日々のみ言葉 2015年11月15日(日)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年11月15日(日)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書8章8節~9節】

    8:8 人々は食べて満腹した。そして余りのパン切れを七つのかごに取り集めた。
    8:9 人々はおよそ四千人であった。それからイエスは、彼らを解散させられた。

    ◎ショートメッセージ

    《イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」
     そこで弟子たちは言った。「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手にはいるでしょう。」
     すると、イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」
     すると、イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。
     人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男四千人であった。
     それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。(マタイの福音書15:32~15:39)』

     この「四千人の給食」の奇蹟は、マルコとマタイの福音書に掲載されている。ある人は、「五千人の給食」と「四千人の給食」を、同じ奇蹟の話として理解していると言う。
     しかし尾山令仁師は、はっきりと言われている。全く別な話であり、主イエスは、あえて弟子たちの為に、このように実際には、二万人以上の人々を満足させる奇蹟を、二回行なわれたのであると、強く主張している。

     その確固たる証拠は、「五千人の給食」は、ほとんどがユダヤの人々であったが、今回の「四千人の給食」は、ほとんどの人々が異邦人であることにある。つまり「救い」は、最初ユダヤ人、つまりイスラエルから始まり、そしてついには、その「良き知らせ」は異邦人にもたらされることになる。その事実が、証明しているのだ。

     さて「五千人の給食」の時には、余ったパン切れを集めると、十二のかごにいっぱいとなった。それは、まさしく十二使徒を表わし、そして主イエスが、彼らに渡すべく報酬であったことには間違いない。

     これは主イエスご自身が、十二使徒たちを遣わされる時に言われた言葉からも、間違いのないことである。

    『その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。(ルカの福音書10:7)』

     さて、次に、今回の「四千人の給食」の奇蹟には、余ったパン切れを集めると、七つのかごに、一杯になったと言うわけだ。

     「7つのかご」とは、何を表しているのであろうか。
    使徒ヨハネは、黙示録において、このように主イエスが言われたことを書き記している。

    『私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。
    その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」(ヨハネの黙示録1:9~1:11)』

     ここから、「七つのかご」とは、教会であると言う推測が成り立つ。十二使徒によって、七つの教会が誕生すると言うことである。また黙示録に書かれてある「七つの教会」は、まさしく代表的な教会を表わしているとも言える。

     この「四千人の給食」の時には、まだ主イエスは「教会」と言う言葉を、弟子たちには教えてはいない。ピリポ・カイザリヤにて、シモン・ペテロが「メシヤ告白」をするまでは、隠されているのである。

     「教会」は、主イエスのものである。「教会」は、主イエスがその尊い血潮を流され、その代価で買い取られたものである。
     この世には、まだ「教会」が置かれている。教会は、決して「建物」ではない。イエスを主と告白する人々の集まる所が教会である。やがて、その「教会」が天に引き上げられる時が来る。しかしその前に、日本に大きなリバイバルが訪れることは、間違いない。
     それゆえ友よ。あきらめずに、主イエスを伝え続けようではないか。》

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