• 日々のみ言葉 2015年11月14日(土)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年11月14日(土)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書8章6節~7節】
    8:6 すると、イエスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃった。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
    8:7 また、魚が少しばかりあったので、そのために感謝をささげてから、これも配るように言われた。

    ◎ショートメッセージ

    《マタイ、マルコ、ルカの共観福音書、そして第4福音書と呼ばれるヨハネの福音書のすべてに記載されている奇蹟は、「五千人の給食」である。ここではルカによる福音書における、その奇蹟の場面をもう一度見てみることにしよう。

    『そのうち、日も暮れ始めたので、十二人はみもとに来て、「この群衆を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから。」と言った。
     しかしイエスは、彼らに言われた。「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」
     それは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかしイエスは、弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい。」
     弟子たちは、そのようにして、全部をすわらせた。
     するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた。人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった。(ルカの福音書9:12~9:17)』

     「五千人の給食」の時には、パンは五つであった。また魚が二匹であった。これは、ある一人の少年が持っていた当時の一般的な「お弁当」であった。
     今回の「四千人の給食」では、パンは七つ、そして魚は少しばかりであった。なぜパンの数は書かれており、魚の数は書かれていないのか、非常に不思議である。また誰が持っていたのかも書かれてはいない。

     主イエスは、「五千人の給食」の時の同じように、人々を座らせた。この時にも、人々を、五十人ぐらいずつ組に分けたと思われる。
     そして、天を見上げて感謝を捧げられ、弟子たちに配るよう命じられたのである。

     「五千人の給食」も、そして「四千人の給食」も、聖書は男の人の数を教えている。当然そこには、女、子どももいたはずで、この時にも群衆の数は、二万人近くいたと思われる。
     人々に、パンと魚を運ぶ弟子たちもたいへんな労力であったに違いない。しかし、七つのパンと少しばかりの魚を、裂き続け、増やしていった主イエスは、その奇蹟をおひとりでなされたわけで、主イエスのご苦労は、どんなにか、大きなものであったろうか。

     しかし、この奇蹟を主イエスおひとりがなされた事には、大きな意味がある。それは、主イエスが、本当に創造主であること、神の御子であることを、再度、弟子たちに教えるためであった。

     人間は、学ぼうとしなければ、つまり謙遜に学ぶ気持ちと態度がなければ、なかなか悟ることも、真理をつかむことも出来ないものである。
     弟子たちは、かつて「五千人の給食」の奇蹟を体験していた。それにも関わらず、何も学んではいなかった。案外、私たちはそういう者なのだ。それゆえ、主イエスは、あえて同じ状況を造り出し、この奇蹟をなされたのである。
     それは、お腹を空かして弱っている人々の哀れみの為に、そしてやがて残して行くことになる愛する弟子たちの為に。

     この時の弟子たちのように、私たちは今、直に主イエスにお会いすることは出来ない。
    直に主イエスから教えを受けることも出来ない。しかし、その時にはまだ存在していなかった「新約聖書」は、今、手元に置かれているはずだ。
     この「新約聖書」の中において、私たちは主イエスにお会いすることは出来る。

     大切なことは、主イエスは、今も奇蹟をなされるお方であることを、決して忘れてはならない。
     そして主イエスが創造主であること、神の御子であることの「しるし」「奇蹟」「不思議」を、今も求め続けるべきである。
    「五千人の給食」も「四千人の給食」も、私たちに取っては、確かに「過去の出来事」である。しかし、主イエスは十字架に架かられ、死んだ後、三日目によみがえられた。そして弟子たちの見ている間に、天に上られ、今は、父なる神の右の座に座しておられる。今も生きておられるのだ。
     そして、私たちには、「助け主」であられる聖霊なるお方が共にいて下さるのである。そうだとしたら、クリスチャンの人生は、本来は奇蹟、奇蹟の連続体験人生になるはずである。
     そうなっていないとしたら、何かがおかしいことになる。》

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