◇◆◇日々のみ言葉
2015年11月13日(金)
◎聖書箇所 【マルコの福音書8章5節】
8:5 すると、イエスは尋ねられた。「パンはどれぐらいありますか。」弟子たちは、「七つです。」と答えた。
◎ショートメッセージ
《『そのころ、また大ぜいの人の群れが集まっていたが、食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。
「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます。」
弟子たちは答えた。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」(マルコの福音書8:1~8:4)』
すると、イエスは尋ねられた。「パンはどれぐらいありますか。」
「五千人の給食」の時も、同じように、「パンはどれぐらいありますか。」と、主イエスは言われた。そして続けて、「行って見て来なさい。」とも言われたのであった。
今回も、弟子たちは答える前に、当然パンがどれぐらいあるのかを調べに行ったはずである。ただし、弟子たちが持っていたパンであったのか、あるいは群衆が持っていたパンであったのかは、書かれてはいない。
ともかく「七つのパン」しか残っていなかったのである。
十二使徒たち、おそらく主イエスと共にしていたであろうと思われる、あと六十人の弟子たちは集まって来て、確認し、そのパンを持って主イエスに報告した。
この報告したのは誰であろうか。マルコは書き記してはいないが、「五千人の給食」と同じ展開と考えられるとしたら、私はアンデレであったと思う。
『弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」(ヨハネの福音書6:8~6:9)』》
弟子たちは、「七つです。」と答えた。
この答えには、どんな思いが含まれていたのだろうか。
主イエスに対する期待だろうか。それとも、「七つのパン」で一体何ができるのだろうか、という失望だろうか。
主イエスは、「五千人の給食」の奇蹟をなされた。その奇蹟は、4つの福音書に記載された唯一の奇蹟の話である。使徒ヨハネは、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書を知っていた。しかし、それだけでは、不足していた真実があった為、あえて老骨にむち打って、第4福音書を執筆したのである。
この「五千人の給食」の奇蹟は、間違いなく弟子たちの為になされたことである。主イエスは、ご自身に従う者に、すべてを捨てて主イエスの福音の為に、労苦する者に対して、いっさいの責任を持つ、と言うことを教えるためである。
しかし、使徒たちは「五千人の給食」の奇蹟だけでは、悟ることが出来なかったのだ。それゆえ、主イエスは、あえて「四千人の給食」の奇蹟を再度、行ない、弟子たちに、再び教えたのである。
「七つのパン」しか残されていなかった。いや「七つのパン」が、まだ残されていた。と考えることは、全く違う意味となる。
しかし、私たちは忘れてならない。神は、無からすべてを生じさせられるお方であることを。
もしパンが一つも無くても、主イエスは、そこにパンを生じさせることが出来るお方である。
パンの数が問題なのではない。大切なことは、主イエスに対する「信仰」であり「信頼」なのだ。》