• 日々のみ言葉 2015年11月12日(木)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年11月12日(木)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書8章4節】
    8:4 弟子たちは答えた。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」

    ◎ショートメッセージ

    《マタイ、マルコ、ルカの共観福音書、そして第4福音書と呼ばれるヨハネの福音書のすべてに記載されている奇蹟は、「五千人の給食」である。ここではマルコによる福音書における、その奇蹟の場面をもう一度見てみることにしよう。

    『そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻も遅くなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」
     すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」
     するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」
     イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。
     するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。
     人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。パンを食べたのは、男が五千人であった。(マルコの福音書6:35~6:44)』

     十二使徒は、この「五千人の給食」の奇蹟を身を持って体験したはずである。にも関わらず、全く彼らの主イエスに対する信仰は、成長していなかったことが分かる。

     まず「五千人の給食」の時には、弟子たちはこのように主イエスにお願いする。
    「ここはへんぴな所で、もう時刻も遅くなりました。みんなを解散させてください。」

     次に「四千人の給食」の時には、主イエスにこう答える。
    「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」

     どちらも「へんぴな所」である。
     神の摂理は何と不思議なことであろうか。どちらの場合にも、近くに町や村はないし、しかも「五千人」の時には、二万人以上の人々、「四千人」の時にも、少なくとも一万五千人以上の人々が、いたとも言われている。

     常識的から考えても、この大人数の人々が満足することの出来る食べ物を、一体どうやって供給することができるだろうか。

     今現在においても、いきなり突然、これだけの人々に食べる物を用意するとなると、それこそ何百軒のコンビニエンスストアに行って買い出ししなければならない。それでさえ、簡単なことではない。

     それだからこそ、弟子たちが躊躇したことも理解できると言うものである。
    しかし、彼らには主イエスが、共にいて下さっておられた。彼らは、主イエスが、本当にどのようなお方であるのかを、まだ真に理解していなかったのだ。
     もし「五千人の給食」の時に、しっかりと真理を学んで身につけていれば、もう少しましな答え、主イエスを喜ばす答えが出来たはずである。

    『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネの福音書14:6)』

     人は、どうしても常識に縛られ、目に見えるものだけで判断しがちである。「五千人の給食」の奇蹟を起こされた方が、ここにおられるのに、なぜ彼らは信じることが出来なかったのであろうか。
     この四千人の男の人たちにも、主イエスは十分に食べさせて満足させることが出来ることを。

     主イエスは言われた。

    『そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイの福音書6:31~6:34)』》

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