※本日の聖書箇所「ルカの福音書11章33節~36節」(新約p.139上段左側)
11:33「だれも、明かりをともして、それを穴蔵の中や升の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来た人たちに、その光が見えるようにするためです。
11:34 からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります。
11:35 ですから、自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい。
11:36 もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、明かりがその輝きであなたを照らすときのように、全身が光に満ちたものとなります。」
◎メッセージ【世の光として】
《「明かり」とは、私たち一人一人のことです。山上の垂訓において、主イエスは、
「あなたがたは世の光です。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになる為です。」とも語られました。
私たちは、この世に置かれた光であると主は言われます。この世は真っ暗闇です。誰もが、手探りで右往左往していて迷っています。
しかし、私たちは違います。聖書を通して、創造主なるお方に出会い、真理を知ったのです。真理とは、世界がどのように創造され、私たちはどこから来てどこへ行くのか、なぜ私たちが存在するのか、そして私たちの人生の最大の目的は何なのか、その答えを知ったのです。その答えこそ、主イエス・キリストです。
主イエスは、ご自身のことも、同じように言われています。
「私は世の光です。私に従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、命の光を持ちます。私たちは、私を遣わされた方のわざを、昼のうちに行なわなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。私が世にいる間は、私が世の光です。」と。
この言葉は預言です。しかも二重の預言です。「だれも働くことのできない夜」とは、十字架の後の三日間を表わしています。そして、もう一つは、クリスチャンが携挙された後の世界を表わしています。
「からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります。ですから、自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい。」と、主が言われたことは、「霊的な目」のことを意味しています。
当時のユダヤにおいては、明かりは、オリーブ油に灯心をつけて、火をつけるものでありました。灯し続けますと、やがてオリーブ油は無くなります。すると、火は小さくなり暗くなって行き、やがて消えてしまいます。そうなりますと、オリーブ油を足さなければならないことは明白です。それこそが、み言葉(聖書)を読むことであり、祈ることであり、賛美して感謝することなのです。
私たちは、愛するクリスチャンの兄弟姉妹たちの真ん中に置かれたのではありません。ノンクリスチャンたちのど真ん中に置かれているのです。
しかし、人々は、私たちの「いのちの光」に気がつきます。なぜなら、私たちは霊的存在であるからです。主は、私たちを楽な場所には置こうとはしません。闇が深い場所に置こうとされるのです。闇が深ければ深いほど、私たちは「世の光」として、さらに輝きを発することになり、人々を照らす者となるのです。》