◇◆◇日々のみ言葉
2015年12月2日(火)
◎聖書箇所 【マルコの福音書8章33節】
8:33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
◎ショートメッセージ
『主イエスは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない。」と、弟子たちに教え始められた。
しかも、はっきりとこの事がらを話された。
するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
シモン・ペテロは、主イエスを「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と信仰告白した。
使徒パウロはこう言う。
『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ人への手紙10:9~10:10)』
この法則は、今も変わらない。
さて、シモン・ペテロは、主イエスの第一回目の受難予告を聞き、これは大変だと思い、主イエスをわきに連れ出し、いさめたのだ。
「長老、祭司長、律法学者たちに捨てられる」と言うことは、イスラエルを代表する政治的かつ宗教的最高議決機関であるサンヘドリンから、見放されると言うことであり、彼らによって殺されると言うことである。
よってシモンが、気が動転してしまい、主イエスを元気づけようと、あるいは奮い立たせようとしたことは、別に大きな罪を犯したわけではなく、また当然のようであったかも知れない。
「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたにおこるはずはありません。」
この時、主イエスは、強い口調で、シモンを叱りつけたのである。
「下がれ。サタン。」
「サタン」とは「悪魔」のことである。悪魔とは、悪霊の頭のことである。もちろんシモン・ペテロは、サタンでもなければ、悪魔でもない。それにも関わらず、なぜ主イエスはそのように言われたのであろうか。
主イエスは、シモン・ペテロの背後に「悪魔」の誘惑と、存在を感じられたのだ。
つまり、悪魔が、シモン・ペテロの心を惑わすと共に、誘導し、このことを言わせたのである。
では、シモンの心の中には何があったのか。
彼は、漁師であった。彼には仕事があった。彼には家族があった。彼は、主イエスの言葉『人間を取る漁師にしてあげよう』を信じ、すべてを捨てて主イエスに従って来た。
なぜなら、主イエスこそが、イスラエルを解放してくれる政治的メシヤであると確信していたからである。
その主が、ユダヤ人から捨てられ殺されるとしたら、今まで自分が投資して来た時間や、労働とも言えるべき奉仕の報いや報酬は、一体どうなるんだ、と言うことである。
私たちも、これと言ったあやまちを犯しやすい者である。
例えば、
『今までこの教会に多くの献金と奉仕をして来た。なのに、教会は何もしてくれない。全く骨折り損であり、無駄遣いをしてしまった。』
などと、思えないでもないし、また思わないでもない。
それは、「人」を見ているからでる。それは「人」と「人」との関係にしか目が行っていないからである。
それは「あなた」と「神」との関係ではないからだ。もしあなたと「神」との関係が、しっかりとしていたら、あなたが奉仕したのは、主イエスに対してであり、あなたが献金したのは主イエスに対してである。それは神に対してであるのだ。神は、主イエスは、喜んで、受け取っておられる。そしてその報いは、教会ではなく、神がしてくださる。
主イエスは言われた。
「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
主イエスは、まことに「メシヤ」すなわち救い主であられた。主は、政治的メシヤではなく、霊的メシヤであられた。
主イエスの使命は、すべての人の罪を背負い、身代わりとして「十字架」に架かることにあった。十字架刑において殺されること、つまり死ぬことにあった。
この不思議な神の摂理とも言うべき「霊的奥義」は、シモン・ペテロには分かるはずもない。また理解できる範囲を、遙かに超えていた。
「下がれ。サタン。」
このように言われたシモン・ペテロは、どう思ったのか、聖書はそのことについて詳しく述べてはくれていない。ただ言えることは、ペテロは、主が昇天された後、使徒たちの真のリーダーとして用いられることになった時、この経験をへりくだって受け止めていたと、言えないだろうか。「失敗」は人を強くし、また謙遜を与えることになる。》