◇◆◇日々のみ言葉
2015年12月3日(水)
◎聖書箇所 【マルコの福音書8章33節】
8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
◎ショートメッセージ
『この時、主イエスには、多くの弟子たちがいた。まず十二使徒、そしてその次に続く六十人の弟子たち。そればかりではなく、さらに弟子希望の者も大勢いたであろう。また主イエスが「群衆」と呼んだ人々の中には、主イエスを追い続けている人々もいたに違いない。
その彼らを、呼び寄せて話されたのである。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
ここで、主イエスは「十字架」と言う言葉を口に出された。まだご自分が、十字架につけられて殺されることを話してはおられないのにも関わらず。
「十字架刑」とは、ローマ帝国が反逆した者たちに対して、見せしめとして考え出した、もっとも残酷な処刑方法であった。
特に罪人が味わう苦しみは、想像を絶するものであった。「十字架」とは、まさしく「死」を、「苦しみ」を象徴するなにものでもない。
主イエスは、自分を捨て、自分の十字架を背負い、そしてついて来なさい、と言われるのである。
では「自分を捨てる」、と言うことは、一体どういうことであろうか。
よく、「自分に死ぬ」と言われるが、それは決して「自殺をすること」ではない。
自分の意思を殺すことでもない。
私たちは、「自分自身」という自我を、人格を持っている。それを捨てることも、それを殺すことも出来るはずがないのは、当たり前である。
では主イエスが言われたことは,どのような意味を指すのであろうか。
それは、主イエスを「主」と告白する者は、主イエスを、まさしく主人として歩むことである。
つまり主イエスに従うことである。自分の意思よりも、主イエスの意思を優先し、主イエスの意思に従い行動することである。それが自分を捨てることなのだ。
では次に、「自分の十字架を担ぐ」と言うことは、一体どういうことであろうか。
よく、「これが私の十字架である」と言われることがある。
例えば病や、良くない環境や、あるいはその他のわざわい、災害、人間関係のしらがみ等、それが「自分の十字架」と言う人がいるが、そのことを指すのではない。
なぜなら、それは担ぐものではなく、強制的に担がされたものだからである。そこには選択の余地がないからだ。
「自分の十字架」とは、自分の意思で担ぐものなのだ。
つまり、担いでも、また担がなくてもよいものなのである。それを担ぐかは、その人の意思にかかっている。
「自分の十字架」を担ぐということは、クリスチャンとして歩むことである。この世から救い出された者として、天の御国に住む者として歩むことである。
しかし私たちの自分自身の力だけでは、「自分に死ぬ」ことも、「自分の十字架」を担ぐことも出来ないことである。
それは、「助け主」がおられて、初めて出来ることなのだ。そうである。聖霊様の力の助けなくしては、絶対に出来ないことなのだ。
主イエスの弟子になるか、ならないかは、その人の生き方にかかっていると言える。主イエスの弟子になる者は、自分を捨て、自分の十字架を負い、主イエスに従ってついて行かなければならない。
このようなことであるならば、主イエスの弟子となることは、本当につらく、苦しい道であるかのように思えないでもない。
しかし、そうであろうか。
もしそうだとしたら、なぜ主イエスは、「救い主」としてこの世に来られたのであろうか。
主イエスの弟子となることは、主イエスの栄光のために用いられるということである。
そこに、本当の幸福があり、そこに本当の平安があり、そして「赦し」と「永遠の命」がある。そこに、人生の意味と、私たちが存在する意味と、生きて行く意味もある。
それだけではない。やがて私たちに与えられる栄光が、どれほど素晴らしいものなのか。
それは、主にお会いした時に、初めて分かるものなのである。
私たちの国籍はこの世ではない。天にあるのだ。
主イエスは言われた。
『「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネの福音書14:1~14:3)』》