◇◆◇日々のみ言葉
2015年12月5日(金)
◎聖書箇所 【マルコの福音書8章35節】
8:35「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」
◎ショートメッセージ
『ここで主イエスが言われる「いのち」とは、何であろうか。
生きているものは、すべていのちを持っている。
生きていると言う証拠は、いのちがあると言うことである。
主イエスは、エルサレム神学校の校長であるニコデモにこのように言われた。
『だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネの福音書3:13~3:15)』
主イエスは、「永遠のいのち」を与えるために来られたのである。
使徒ヨハネは、次のように述べている。
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)』
多くの人々は、自分の心臓が鼓動を止めた時、あるいは体が破壊された時、その時に「死」が訪れ、いのちを失うことになる、と信じている。
つまり、死んでしまったのなら、それですべてが終わりであり、もはや何もなくなってしまい「無」となることと、信じているのである。
確かに、その時、私たちの体、すなわち肉体には死が訪れ、その肉体はもはや二度と動くことはない。そして、そうなった肉体を私たちは「遺体」と呼ぶ。
しかし聖書は、私たちが霊的存在であることを教えている。本当の私たち自身は「霊」であり、その霊は、魂を持っており、肉体の中に住んでいるのである。
もし肉体の心臓が鼓動を止めた時、あるいは肉体が破壊された時、本当の存在である私たち自身の霊は、その肉体から離れることとなる。あるいは霊が解放されるとも言っても良い。
主イエスが、最初に言われた「いのち」とは、この肉体のいのちのことである。そして、次に言われた、「救ういのち」とは、永遠のいのちを指し示す。
私たちは「いのち」と言うと、とかく肉体のいのちのことしか考えないが、実は本当のいのちがあるのだ。
本当のいのちとは、「霊」である。そしてその「霊」は不滅である。
しかし、私たちは皆、最初の人であるアダムとエバの子孫であり、罪を持って生まれて来る。そして生まれて来る子は誰であっても、その霊は死んでいる状態なのである。
「永遠のいのち」とは、その霊が新しく生まれ変わることである。
主イエスを心で信じ、口で主と告白する者は、救われて永遠のいのちを持つことになる。
「永遠のいのち」こそが、本当のいのちである。
主イエスが言われたことは、
「福音」を信じないで、自己保身的な人は、かえって大事ないのちを失ってしまう結果となり、主イエスと福音のために、自分の命を犠牲にする人は、「本当のいのち」を自分のものにすることが出来る、と言うことである。
これは、「殉教」をも意味する。日本では、過去の時代において、多くのキリシタンが、主イエスの言葉を信じ、殉教して行った歴史がある。
「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」
やがて、この言葉を直に耳で聞いた十二使徒たちを始め、多くの弟子たちは、殉教の死を遂げることとなる。》