◇◆◇日々のみ言葉
2015年12月5日(土)
◎聖書箇所 【マルコの福音書8章36節】
8:36「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」
◎ショートメッセージ
『幸福とは、どういうことだろうか。
多くの人々は、たくさんの財産があること。また高い地位を持つこと。あるいは名声を手に入れること。それこそが幸福だと考えている。本当にそうだろうか。
主イエスは言われた。
『「誰も、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイの福音書6:24)』
主イエスは、なぜ「ふたりの主人」と言われたのか。
「神に仕える」ということは、イエス・キリストを、自分の主として、主の言葉に従って生きて行くことを指す。主イエスは、ご自分を信ずる者には、その人と共に歩んでくださり、その人を導いてくださる。その人は、主イエスの僕となる。
それでは、「富に仕える」とは、どういうことか。
主イエスが言われたことは、まさしく真理である。「富」が「金」が「財産」が、その人の主人になる、と言うことである。
本来ならば、多くの富を持っている人が、その富を、その財産を自由に使うのであるが、主イエスは、そうとはならず、その富がその人を仕えさせ、その人は、「富」の奴隷になる、と言われる。
まさに本末転倒である。すなわち持っている人と富との立場が逆転することを指す。何たる悲劇であろうか。
悪魔、サタンはこの世の神である。この世の神であるサタンは、この世の栄華こそが幸福であると、人々にそう信じこませ、それを追い求めさせようとする。「お金」こそがすべてかのように。
もちろん、この世において生きて行くためには、ある程度のお金は必要である。神の国とその義とを、まず第一に求める者には、それは与えられると、主イエスは約束されている。
さて、主イエスは、このように言われた。「人は、たとい全世界を得ても。」
ダビデの子であるソロモン王こそは、まさしく、その当時において、この言葉が成就した王である。「伝道者の書(コレヘトの言葉)」には、こう書かれている。
『私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も造った。
私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。
私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。
私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。
私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。
しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。
私は振り返って、知恵と、狂気と、愚かさとを見た。いったい、王の跡を継ぐ者も、すでになされた事をするのにすぎないではないか。
私は見た。光がやみにまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者はやみの中を歩く。しかし、みな、同じ結末に行き着くことを私は知った。(伝道者の書2:4~2:14)』
ソロモン王は、すべてがむなしいこと、そしてみな、同じ結末に行き着くことを知ったのである。その結末とは、「死」である。
私たちの心の奥底には、どうしても埋めることのできない空間を神は造られた。
人々は、その空間を何とか埋めようとして、富や高い地位や名誉や成功や物で満たそうとするのであるが、それらでは、決してその空間を満たすことは出来ないのである。
そこが満たされなければ、ソロモン王のように、全世界のあらゆる物を手にしたとしても、常にむなしさは残る。
幸福とは満たされることにある。何が。それは、その人の心が、満たされることである。では、創造主なる神が造られたその空間は、どうやったら満たされるのであろうか。
その空間は、主イエスが、聖霊なるお方が、本来入る場所なのだ。神にしか、満たすことが出来ないのである。
主イエスは言われる。
『見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。誰でもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(ヨハネの黙示録3:20)』
あなたの心は、満たされているだろうか。》