• 日々のみ言葉 2015年12月7日(月)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年12月7日(月)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書8章38節】
    8:38「このような姦淫と罪の時代にあって、私と私の言葉を恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」

    ◎ショートメッセージ
    『主イエスは、なぜ「姦淫」の時代と言われたのであろうか。
     確かに、イスラエルの歴史は、まことの神に対する背教の歴史でもあった。イスラエルの人々は唯一の神を信じていながら、時にはバアル礼拝など、異教の神々に仕えたのである。

     その歴史の中において、おそらくもっとも暗黒と言われた時代に、救い主イエスが来られた。
     それにも関わらず、彼らは主イエスを「キリスト」として認めようとはしなかった。
     そればかりではない。自分たちが信じているもの、すなわち昔の人の言い伝えである「口伝律法」に従って生きていたのだ。彼らは聖書に書かれた神のみ言葉よりも、人の言葉を信じ、守って来たのであり、また同胞に守らせようとしたのである。

     パリサイ人や律法学者たちは、主イエスの行なわれた多くの奇蹟を見たにも関わらず、主イエスを認めようとはしなかった。
     しかも彼らが、良く知っているイザヤ書におけるメシヤ預言が成就する光景を目の当たりに見た。

     預言者イザヤは言う。

    『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。(イザヤ書61:1~61:3)』

     この預言は、主イエスによって成就したにも関わらず、主イエスを信じ、受け入れようとはしなかった。それこそが、まさしく主イエスの言われる「罪」の時代なのである。

     「主イエスと、主イエスの言葉を恥じるような者」とは、主イエスの弟子となった者に、主イエスが語られた言葉である。
     一旦主イエスの弟子となる覚悟をし、そして遣わされて行った後に、主イエスとその言葉、すなわちみ言葉を恥るような者には、主イエスが再臨された時に「そのような人を私は恥じる。」、と言われたのである。

     しかし、この言葉は、よくよく考えて見ると、弟子となる者への励ましの言葉にも聞こえて来る。すなわち、主イエスと主イエスの言葉を恥じない者、つまり誇りに思う者には、御使いたちの間において、あるいは天において、主イエスは、その者に賛辞を贈られる、と言うことである。

     何と言う特権であろうか。主イエスが、大きな声で、すべての御使いの前で、そして再臨の時に、ご自身が連れて来られる全ての人の前で、その人を誇らしげに褒めてくださるのである。

     主イエス・キリストを語ることを、やめてはならない。主の証し人として、たとえどんなにか日本が堅い土壌であっても、語ったことは、決して無駄にはならない。
     たとえ、目に見える成果が無くとも、主イエスが再臨なされる時に、主ご自身がご褒美をくださるのだ。「良くやった。忠実な僕よ。」と。
     これだけでも、十分に励まされるではないか。

     今から二千年ほど前の当時でさえ、「姦淫」と「罪」の時代であったのなら、今現在は、さらに、いや桁違いに、「姦淫」と「罪」にまみれた時代ではないだろうか。
     その中において、私たちクリスチャンの存在は、確かに比率から言っても、小さいものかも知れないが、私たちは世の光であり地の塩である。

     そして私たちの中には、聖霊様が住んでいてくださっている。それゆえ、勇気を持って、主イエスを、主イエスの言葉を、胸を張って誇らしげに、大いに語ろうではないか。》

Comments are closed.