◇◆◇日々のみ言葉
2015年12月8日(火)
◎聖書箇所 【マルコの福音書9章1節】
9:1 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」
◎ショートメッセージ
『主イエスの言われたこの言葉は、解釈が難しい箇所である。
尾山令仁師は、その翻訳された現代訳聖書において、この箇所をこのように訳された。
『イエスは彼に言われた。「よく言っておきますが、確かに、イスラエルの人々が裁かれるのは、この世の終わりの時ではなく、間もなくにことです。その時、わたしが来て、イスラエルの人々を裁きます。またその時、教会が生まれ、そこで、神の国の驚くべき力を見るでしょう。」(マルコの福音書9:1現代訳聖書から)』
しかし、原文を直訳しているのは、新改訳聖書である。尾山師は、ギリシャ語から意訳したものである。
さて、ここで「神の国が力をもって到来している」ことが、何を意味するのかについては、三つの解釈がある。
一つは、主イエスの再臨を指すという解釈。もう一つは、ペンテコステを指すという解釈、そしてもう一つは、主イエスの姿変わりを指すという解釈である。
第一の再臨の時とする解釈は、常識的には無理であると尾山師は判断している。とすれば、第二もしくは第三の解釈となる。尾山師は、第二の解釈を取り、意訳したのである。
さて、本当の意味は何であるのか。
まず、本当に第一の解釈には無理があるのだろうか。
私たちは、十二使徒の中の多くの使徒が、エルサレム初代教会から派遣され後、どのような働きをし、またどのような最後を迎えたのか、詳しく知ることができないが、多くの使徒は、殉教したこと、伝承において分かっている。
しかし、ただ一人だけは、殉教せずに天寿を全うした使徒が存在する。それは主が愛された弟子ヨハネである。
ただし、主の再臨は、未だまだである。となれば、今も生きていることになる。これはどう考えても、常識的に言って無理である。
尾山令仁師は、ペンテコステの時であると解釈された。しかし、これは、あとわずかな月日の後に起こることである。その時に生きている人は、ほとんどではないか。
ヨハネは、福音書の最後にこう書き記している。
『ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。」と言われたのである。(ヨハネの福音書21:21~21:23)』
これが答えである。主イエスは、はっきりと「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても。」と言われたのである。
もし、そうだとしたら、使徒ヨハネは今でも生きていて、どこかに隠れ潜んでいることも、決して考えられないことではない。
主イエスは言われた。
「神の国が力をもって到来しているのを見るまでは」
実は、ある仮説が立てられるのだ。
やがて紀元後313年に、ローマ皇帝コンスタンティヌス帝により、キリスト教が公認され、380年にローマ皇帝テオドシウス帝が、キリスト教を国教とするのである。
これこそが、まさしくキリスト教を迫害し続けたローマ帝国に、神の国が力を持って到来した時ではないだろうか。それまでなら、ヨハネが生き続けることは可能である。
なぜなら、ノアの息子セツは、500年以上生きながらえたのである。》