◇◆◇日々のみ言葉
2015年12月10日(木)
◎聖書箇所 【マルコの福音書9章3節】
9:3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。
◎ショートメッセージ
『それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。
高い山とは、ヘルモン山である。この山に、『主イエスは祈りに行かれた。』と、ルカはその福音書の平行記事に記載している。
主イエスは、十二使徒の中で、やがて使徒たちの中において中心的な働きをして欲しいと言う願いから、シモン・ペテロとゼベタイの子ヤコブとヨハネを連れて山に登られた。
ヘルモン山には、北端の峰アマナ、中央の峰がセニル、そして最高峰のヘルモンと3つの頂きがある。主イエスは、どの峰に三人の側近の弟子たちを連れて行かれたのかは書かれてはいない。この山は、何と長さが32キロにも及ぶ連山だからである。
聖書には書かれていないが、私は、頂上ではなく、途中の雪の無い場所であると思う。
なぜなら頂上には、いつも万年雪が残っているからだ。このような厳しい条件の登山は、今でさえ最高の装備を持ってでも、なかなか登攀することは難しいのに、ましてや当時の装備では、どうやってそんな高い場所まで登ることが出来ようか。おそらく普通の服装と靴で登られたに違いない。
その証拠に、シモン・ペテロが、この後わけの分からないことを口走るのだが、その言葉から、そこには雪がないことが分かる。
ペテロはこう言ったのだ。
『「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」(マルコの福音書9:5)から』
もし、そこに雪があったとしたら幕屋を造ることは、かなり難しいことである。よってヘルモン山の中腹辺りが、一番妥当な場所であると言えるだろう。
さて突然、『主イエスの御衣は、非常に白く光り出した。』、とある。
御使いも同じように、白く輝いていることを、聖書は述べている。それはまさしく神に仕える者の栄光である。
主イエスは、本来ご自身が持っておられた、神の御子としての栄光を現わされたのである。
なぜか。
それは、弟子たちの訓練の為である。他の十二使徒はもちろん、しかもその中心であるペテロもヤコブもヨハネも、主イエスに対する「メシヤ感」は、ローマ軍からイスラエルをユダヤ人を解放してくれる政治的メシヤであった。つまり民衆と何も変わらなかったのだ。よって主イエスは、彼らを諭す必要を覚えられたのだ。
主イエスは、霊的メシヤとして来られたのである。それは私たちの罪の身代わりとして、十字架に架けられ死ぬことによって成される。
もちろん主イエスは、政治的メシヤとして、ご自身を現わされることも、簡単にお出来になられた。もしそのように主イエスが行動されたのなら、間違いなく一瞬にして、ローマ軍は亡ぼされたであろう。
また中心地であるローマを始め、ローマ軍の駐屯している場所に、天から火が降って来て、ローマ皇帝もローマ軍もローマ人も、すべて焼き尽くされたであろう。
しかし、それでは、人類の罪の赦しはない。罪からの解放も、死からの解放も、そして「永遠のいのち」でさえも、何もないことになる。
主イエスは、霊的メシヤとして来られたのである。
そのことを教える為にも、またユダヤのどこからも見ることが出来るヘルモン山にあえて連れ出して来たのも、主イエスが、旧約聖書に預言されている「メシヤ」「キリスト」であることを、ペテロよヤコブとヨハネの霊に、魂に、しっかりと刻む込む為に、なされたことなのだ。
『その着ておられる御衣は、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。』
一体どれほどの白さであろうか。
もちろん私たちは、それを見ることは出来ないから、それを知ることは不可能である。しかしペテロとヤコブとヨハネの目には、しっかりと、その白さが焼き付いたはずだ。
彼らは、永遠に忘れることはない。
主イエスは、三人の愛弟子に、ご自身がまことの「神」であることを明らかにされたのである。》