• 日々のみ言葉 2015年12月15日(火)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年12月15日(火)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書9章9節】

    9:9 さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。

    ◎ショートメッセージ

    『ペテロとゼベタイの子ヤコブとその弟ヨハネが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、そこにはもはや誰も見えなかった。
     「誰」とは、先ほどまで主イエスとそこにいて話し合っていたエリヤとモーセである。
     三人の弟子たちは、自分たちは夢でも見ていたのではないだろうか、と思ったはずである。しかし三人同時に同じ夢を見るはずはない。
     彼らは確かにヘルモン山において、主イエスの栄光を目撃したのだ。

     さて主イエスとペテロとゼベタイの子ヤコブとその弟ヨハネは、ヘルモン山を降りて行った。
     そして他の使徒たちが待つ、ピリポ・カイザリヤの村に戻って行く最中に、主イエスが言われたのだ。

    「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことを誰にも話してはならない。」

     主イエスは、三人の弟子たちに「特に」、つまり厳しく命じられたのである。

    「人の子」とは誰を指すのだろうか。
     もちろん主イエスである。

     預言者ダニエルは、その預言書にこう書き記している。

    『私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
     この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。(ダニエル書7:13~7:14)』

     この箇所から、ユダヤ人は「人の子」と呼ばれる方が「メシヤ」であることを知っていたし、信じていたのである。
     それゆえ主イエスが、パリサイ人や律法学者たちに、ご自分のことを「人の子」と言われた時、怒りと憎しみに燃えたのである。
     彼らは、主イエスを信じることも出来ず、また受け入れることが出来なかったのである。
     
    ペテロとゼベタイの子ヤコブとその弟ヨハネは、もちろんそのことを知っていた。
     しかし主イエスの言われた言葉、「死人の中からよみがえるまで」と言うことは、彼らにはまだ理解出来なかったのである。
     「死人」とは、主イエスが死ぬことを意味する。もちろんそんなことは考えられるはずもなく、また考えたくもなかったはずだ。

     そして「よみがえるまで」とは。
     確かに、彼らはヤイロの娘のよみがえりを目撃した。またナインのやもめの一人息子のよみがえりも目撃した。
     しかし、それは主イエスがなされたことなのだ。

     その主イエスが、本当に死んでしまったのなら、一体誰が主イエスをよみがえさせるのか。もちろん自分たちに、そのようなことが出来るはずもない。いや、誰も出来ない。

     とにかく彼らは、主イエスの言われた通り、ヘルモン山にて見たことを、他の使徒たちや女たちに話すことはしまい、と誓い合ったはずである。

     彼らは、主イエスの栄光をはっきりとその目で見た。
     にもかかわらず、実は、まだ彼らは主イエスが本当に誰であるのか、信じることが出来なかったのである。
     このお方こそが、創造主なる神であられることを。
     このお方こそが、ユダヤ人が、イスラエルが多望していた「メシヤ」であることを。彼らは、まだ半信半疑であったのである。

     人は、そうなのだ。なかなか信じることが出来ない。
     しかし「信仰」とは、主イエスを、信じ信頼し、このお方に、聖書のみ言葉に、全身全霊を注ぎ込むことである。そして、その報いは大きい。
    「永遠のいのち」という報いは、本当にもの凄いことなのだ。》

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