◇◆◇日々のみ言葉
2015年12月14日(月)
◎聖書箇所 【マルコの福音書9章8節】
9:8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。
◎ショートメッセージ
『それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。
その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。
また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。
すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。
そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。(マルコの福音書9:2~9:7)』
「そのとき雲がわき起こってその人々をおおい」とは、どういうことか。
高い山では、一瞬にして霧が発生し、辺りがまったく見えなくなってしまうことが起こる。山の天気は、本当に分からないのである。
この時、ペテロとヤコブとヨハネが驚きの中に見つめていた主イエスとエリヤとモーセが、深い霧の中に、アッと言う間に隠れてしまったと言うことである。
もちろん自分たちも深い霧に包まれてことは言うまでもない。この「深い霧」が聖霊を指すことは、すでに書かせていただいた。
この状況と同じ体験を、やがて三人の弟子たちは、他の使徒たちと共に目撃することになる。
ルカは、「使徒の働き」において、こう書き記している。
『こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒の働き1:9~1:11)』
まず、ヘルモン山での出来事が何を象徴するのかを考えて見たい。
エリヤは預言者の代表である。すなわち預言書のすべてを象徴する。
モーセは律法の代表である。すなわちモーセ五書を始め、様々なすべての歴史書を象徴する。
そうである。それは聖書を指す。
この時には、まだ新約聖書は、文字一つ書かれてはいないので、旧約聖書のことである。
つまり、旧約聖書に預言された救い主なる「メシヤ」は、イエスであることを映像によって、三人の弟子たちに見せたのである。
それゆえ、霧が晴れると、そこには主イエスしか見えなかったのだ。ペテロとヤコブとヨハネは、辺りを見回して、エリヤとモーセを探したはずである。
そこには、主イエスがおられた。
主イエスだけが、唯一の道であり、真理であり、永遠のいのちに至る道なのである。
主イエスが、よみがえられて40日にわたり、生きておられることを現わされた後のことである。
主イエスは、新たに使徒に加えられたマッテヤを含む十二使徒たちをオリーブ山に連れて行かれた。
そして、彼らが見ている間に、主イエスは上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、十二使徒たちは天を見つめていたのである。
これは彼らに、いつも主イエスを見上げること。見続けることを教えているのだ。
私たちも、いつも頭を上げるべきである。下を見てはならない。うつむいてはならない。私たちは、やがて再び来られる主イエスを、いつも待ち続けると共に、上を見上げて、聖霊なるお方と共に、歩もうではないか。》