◇◆◇日々のみ言葉
2015年12月16日(水)
◎聖書箇所 【マルコの福音書9章10節】
9:10 そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。
◎ショートメッセージ
『主イエスは、ヘルモン山を降りながら、連れて来たペテロとゼベタイの子ヤコブとヨハネに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない。」と特に命じられた。
そこで彼らは、主イエスの語られた言葉を心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。
三人の弟子たちは、主イエスの言われたことを「心に堅く留め」たのである。
それは、どういうことか。
主イエスの言葉に聞き従うことを決意し、その意味が今はわからなくとも、三人はその時が来るまで、誰にもこの体験を話さないことを誓い合ったのだ。
もちろん、ピリポ・カイザリヤにて帰りを待っている他の九人の使徒たち、そして次に続く六十人の弟子たち。この中には、間違いなくバルサバと呼ばれ別命をユストと言うヨセフと、イスカリオテのユダの代わりに使徒に選ばれることになるマッテヤが、いたことは疑いのないことである。
そして女たちにも、話さないことを誓い合ったのである。
主イエスが言われた言葉を、心に堅く留めることは、この三人の弟子たちだけではなく、私たちもするべきことである。
主イエスは言われた。
『イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。(ヨハネの福音書14:23~14:24 )』
尾山令仁師は言われる。
クリスチャンは「み言葉」、すなわち聖書に聞き従う生活をするべきであると。それが「わたしのことばを守る」こととなる。
み言葉こそが、いのちである。
み言葉を通して、聖霊なる神が働いてくださるのだ。
主イエスはこうも言われた。
『しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネの福音書14:26 )』
次に、ペテロとゼベタイの子ヤコブとヨハネは、死人の中からよみがえると言われたことは、どういう意味かを論じ合った。
論じ合うことは決して悪いことではない。しかし結論の出ないことを論じあったとしてもそれは時間の無駄である。
ここで彼らは何を論じ合ったのだろうか。マルコは、そのことについて詳しくは述べていない。
主イエスが、ご自身の最後について教え始められたのは、一週間ほど前からである。
すなわちペテロが、「メシヤ告白」した時だ。
『するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」
するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、 殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。しかも、はっきりとこの事がらを話された。(マルコの福音書8:29~8:32前半)』
この時には、十二使徒をはじめ弟子たち全員に語られたが、今回は側近の三人の弟子たちだけにである。おそらく三人は、一週間ほど前に主イエスが言われたことを思い出して論じ合ったと思われる。
「死人がよみがえる」
このことを信じることは、非常に難しい。今でさえも、信じることは難しい。しかし主イエス・キリストは、まことによみがえられたのである。十字架で終わったのではない。三日目に確かによみがえられたのだ。そして今も生きておられる。
ペテロとヤコブとヨハネは、よみがえられた主イエスに会うまでは、信じられなかったことは、決して責められることではない。》