◇◆◇日々のみ言葉
2015年12月17日(木)
◎聖書箇所 【マルコの福音書9章11節】
9:11 彼らはイエスに尋ねて言った。「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。」
◎ショートメッセージ
『「彼ら」とは、ペテロとゼベタイの子ヤコブとヨハネのことである。
彼らは、「死人の中からよみがえる」と、主イエスが言われたことはどういう意味かと論じ合っていたのである。
そして、側で聞いていた主イエスに質問したのである。
「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。」
当時における聖書教育は、おもにユダヤ人の会堂であるシナゴークにおいてなされた。その頃の聖書と言えば、羊皮紙による巻物であり、写本家によって書き写されたものである。印刷技術のない当時としては、まさに驚くべきことであり、奇蹟とも言えるようなことなのだ。それほど写本家は、ほとんど誤記することなく正確に羊皮紙に写した。 その巻物による旧約聖書が、すべてのシナゴークに保管されたあるとしたら、本当に驚異的なことである。
さて、ペテロとヤコブとヨハネは、今の私たちのように、一人が一冊の聖書を持ってはいない。
それゆえ律法学者、すなわち集会において聖書の巻物を解き明かしてくれるラビから教わったことを思い出し、主イエスに尋ねたのである。
その意味は、「メシヤなるキリストが来る前に、エリヤが来るのでは、ないのですか。エリヤは、まだ来ていませんが。」と言うことである。
「エリヤが来る」という預言は、旧約聖書最後の預言書である「マラキ書」に、しかもその書の最後に書かれている。
そして何と、その後には「中間時代」と言って、神がイスラエルに沈黙した四百年間が訪れるのである。
マラキは、こう述べている。
『見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。(マラキ書4:5~4:6 )』
ここで「エリヤ」について、少し復習する必要がある。最高の預言者は、間違いなく、このエリヤである。
エリヤの最後については、このように書かれている。
『ヨルダン川を渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。
エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」
こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。(第Ⅱ列王記2:9~2:11 )』
私たちは、エリヤが生きているまま、すなわち生身の体で天に引き上げられたことを知っている。これは、「携挙」のひな形でもある。
このエリヤが戻って来ることを、三人の弟子たちは、主イエスに尋ねているのである。
「もし、あなたが人の子ならば、エリヤは一体どこにいるのですか?いませんよ。」と言う意味をも、含んでいるかも知れない。
「エリヤ」だけではない。
私たちは、生きたまま天に引き上げられたもう一人の人物を知っている。
それは、何と大洪水のはるか前に起こった不思議な出来事である。
『エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。(創世記5:21~5:24)』
このエノクも、生きたまま天に引き上げられたのである。
そして主イエスが再臨される時には、まさしくこのエノクがエリヤと共に、終わりの時代、すなわち主イエスが来られる直前に、道を整えることになる。》