◇◆◇日々のみ言葉
2015年12月19日(土)
◎聖書箇所 【マルコの福音書9章14節】
9:14 さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。
◎ショートメッセージ
『「彼ら」とは、ヘルモン山に行った主イエスと、側近の三人の弟子であるペテロとヤコブとヨハネのことである。
主イエスは、三人の弟子たちだけを連れて、ヘルモン山に祈りに出かけられたが、他の弟子たちには、ピリポ・カイザリヤにある村にて待機するように命じられた。
実際に、主イエスの一行が、2,800メートルもあるヘルモン山のどこまで登られたかは分からない。また行って戻って来るまでかかった時間、あるいは日数も書かれてはいない。
もし本当に、登山のごとく頂上を目指すならば、麓から山頂まで行って戻って来るまでに、少なくとも当時の状況からして、数日はかかったはずである。しかも途中で野宿する為には、それ相当の食料などの携行品が必要である。
とすれば、考えられることは、日帰りでも十分可能な範囲、すなわちヘルモン山の中腹辺りまで行かれたのではないだろうか。
もっともあくまで私の推測で、真実は分からない。しかし登山を趣味とする者として、万年雪があるヘルモン山に登頂することは、たとえ登山道が整備されていたとしても、そう容易いことではないと、はっきり言えることなのだ。
さて、主が残るよう命じられた他の九人の使徒たちの所に戻って見ると、何と弟子たちの回りに人垣が出来ていたと言うのである。
そして、ここでも律法学者たちがいた。とすればパリサイ人たちもいたはずである。
なぜか。律法学者たちとパリサイ人たちは、協力し合いながら、何とかして主イエスを陥れようとして、つきまとっていたからである。
今風に言うならば「ストーカー」か。
その律法学者たちと残された使徒たちが、論じ合っていたのである。
律法学者とパリサイ人たちは、いつも議論をふっかけてばかりいた。彼らは、決して主イエスが、神の御子であり「キリスト」であることを信じようとはしなかった。自分たちが正しいと自負していたからである。
ここに、現在のプロテスタント諸教会と同じ有様が見えるのは私だけであろうか。
「教派」が違う。「教理」が違う。
大和カルバリーチャペルの主任牧師大川従道師は、かつてこう言われたことがあった。
「私たちの教会は、異端を除いて、『自分たちだけが正しい』と主張する教会以外は、受け入れ、また交わりを持つことにしています。」と。
「自分たちだけが正しい」
まさに、律法学者とパリサイ人のごとく、他の教理は受け入れようとしない、また教理の違いを議論に持ち出すという教会が、日本には存在するのだ。もちろんすべての教会がそうではないことは、言うまでもない。しかし存在することは否定出来ない。
尾山令仁師は、いつもこう言われる。
「なぜ枝葉の違いばかりに目を留めて、教会は一致出来ないのか。幹は同じなのに。」
幹とは何か。それは主イエス・キリストである。
ローマ・カトリック教会の信仰は異端ではない。ローマ・カトリック教会の信者の方々は、間違いなく私たちプロテスタントの兄弟姉妹である。
主イエスを信仰する同じクリスチャンなのだ。やがては天の御国において、共に主イエス・キリストを礼拝する仲間なのである。永遠のいのちを持つ兄弟姉妹なのである。
話が本題からそれてしまったが、律法学者とパリサイ人の霊的な目は盲目とされていた。
なぜか。
それは、聖書に書かれてある通りである。
『こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。(マタイの福音書13:14~13:15)』
議論好きな人間は多い。しかし信仰は議論ではない。議論の中からは、「信仰」は、決して生まれてはこない。
主イエスを信じることは、まさしく聖霊なるお方の助けなくしては、成しえない。
そして、人が救われることほど、偉大な奇蹟はない。》