◇◆◇日々のみ言葉
2015年12月26日(土)
◎聖書箇所 【マルコの福音書9章21節~22節】
9:21 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。
9:22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
◎ショートメッセージ
『そこで、その父親はイエスの所にその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。
悪霊は、追い出されることを百も承知していた。そのために最後の抵抗を試みたのである。
このケースにおいて不思議なことがある。
それは、主イエスが尋ねられたことだ。
「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」
なぜだろうか。
いつもは、主イエスは「出て行け」と一言で、悪霊を追い出していたはずである。
『それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。(マルコの福音書1:21~1:26)』
その子の父親は、「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。」
何たる悲劇であろうか。おそらく、この時には、10歳くらいにはなっていたのではないだろうか。幼い時から、こんなに苦しむとは。
一体いつ、この悪霊はこの子に取り憑いたのであろうか。悪霊が取り憑くには、それなりの理由がある。
この子の所為だろうか。
いや、むしろ父親が、何らかの魔術や占いなどの降霊術に関わっていた可能性が高い。
でなければ、悪霊に取り憑く隙を見せなかったはずだ。
もちろん、マルコはそこまで詳しく書き記してはいない。よって私の推測に過ぎないことは言うまでもない。
さてこの霊は、「死の霊」である。「自殺の霊」でもある。この霊は、何度もこの子を水の中、火の中に落とし込み、滅ぼそうとしたからである。
悪霊の中においても、強い悪霊は、「死の霊」「怒りの霊」であると言われている。
悪霊どもは、徹底的に悪そのものであり、容赦なく残忍である。悪霊には、これっぽっちの哀れみなどはない。悪霊どもの任務は、人を苦しめ、滅ぼすことにある。破壊することにある。
創造主なる神は、すべてを造りだされたお方である。
その創造の御わざを破壊することが、悪霊どもの任務なのである。
「地獄」は、本来は悪霊どもの行くべき場所である。悪魔、悪霊どもは、一人でも多くの人間を道連れにしようと、彼らの裁きの時が近いことを知って躍起になっているのだ。
しかし「救い主」は、来られた。主イエスは、来て下さった。
その子を救うために。その父親をも救うために。人々を救うために。
父親は言った。
「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
主イエスは、その親子の前に来て下さった。それにも関わらず、その父親は、主イエスが救い主であること、キリストであること、メシヤであることを信じていなかったのである。
今でも多くの人々が、主イエスを信じようとはしない。それは悪霊どもによって、目を曇らされていることも事実であるが、多くの場合には、その人の頑な心に原因がある。
「できるものなら」これが、彼らの特徴である。「信仰」は、出来ると信じることにある。「神にとっては不可能なことは何一つない。」のである。》