◇◆◇日々のみ言葉
2015年12月27日(日)
◎聖書箇所 【マルコの福音書9章23節~24節】
9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
9:24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
◎ショートメッセージ
『イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」
父親は言った。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
彼の息子に取り憑いているのは、「死の悪霊」であった。悪霊どもの中では、かなり位の高いものである。
父親は主イエスに、「もし、おできになるものなら」と答えた。これは主イエスに対する不信仰を表わしたものである。
すかざす主イエスは、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
尾山令仁先生の現代訳では、こう訳されている。
「お出来になるものでしたらなどと言うのか。信じることです。そうしたら治してあげます。」
新改訳では、主語が変わってしまっているのである。つまり主イエスから、信じる者へ。これは明らかに誤訳である。
また、父親の答えも意味が通じない訳となっている。
「信じます。不信仰な私をお助けください。」
これでは、「不信仰な父親を助ける」と言う意味で、悪霊に取り憑かれているのは息子なのだ。また、主イエスが怒られて、それから助けて下さい、という意味にも取れる。これも誤訳である。
新改訳聖書は、「原語」に忠実に訳されていて、それなりに素晴らしい訳ではあるが、本来の意味から外れてしまっていることが多い。また多くの訳者によって訳されているために、一貫性がない。
それゆえ尾山令仁先生は、現代訳聖書を一人で訳されたのである。
父親はこう答える。
「信じます。でも信じきれない私をお助けください。」(現代訳)
これが、聖書が伝えたいメッセージである。つまり信じきれない私(父親)が、信じることが出来るように助けてほしい、と言うことである。父親は、何とか信じようとしているが、今までの経験から、なかなか信じることが出来ないのである。
「信仰」を持てるように、助けてほしい、と言うことなのである。
私たちも、この父親と同じである。私たちは、もちろん主イエスを信じている。このお方が「救い主」であることを知っている。神の御子であられることを信じている。
しかし信じていることと、信じきっていることとは、意味がかなり違う。
「信仰」は賜物である。その信仰を与えてほしいと言うのが父親の願いなのである。
ヘブル人への著者はこう書き記している。
『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル人への手紙11:1~11:2・11:6)』
私たちは、主イエスを「信じきっている」だろうか。このお方だけに、より頼んでいるだろうか。今一度、向き合って見たいものである。》