• 日々のみ言葉 2015年12月30日(水)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年12月30日(水)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書9章28節~29節】

    9:28 イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」
    9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

    ◎ショートメッセージ

    『イエスは、汚れた霊をしかって言われた。
    「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」

     するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言った。
     しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。

     「イエスが家に入られる」とは、どういうことか。
     どうやら、この時、すなわちピリポ・カイザリヤに滞在された時に、拠点とした家があったことが分かる。もし宿屋ならば、マルコははっきりと「宿屋」と、書き記すはずである。おそらく弟子の中の一人の家ではなかっただろうか。

     主イエスには、十二使徒の他に、六十名以上の弟子たちがいたことは、すでに分かっているし、またその中にはマッテヤとバルサバと呼ばれ別名をユストと言うヨセフもいたことは間違いのないことである。

     さて、弟子たちは主イエスに質問した。
    「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」
     この質問には、「以前は追い出せたのに」と言うニュアンスが含まれている。
     またこの質問をしたのは、主イエスとヘルモン山に行くことが許されなかった九人の使徒たちであることも明白である。

     この時、主イエスと共にヘルモン山に行ったペテロとヤコブとヨハネは、この場面を客観的に、少し遠巻きの目で見ていたはずである。
     つまり、自分たちの問題ではなく、留守を任されていた残りの九人の使徒たちの問題であり、もしかしたら「自分たちには追い出せたのに。」と言う気持ちがあったかも知れない。

     主イエスの答えは、二通りあった。

    一つは、
    「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

     つまり、私たちの内なる人が強められる必要があると言うことである。「断食」と「祈り」によって、父なる神から大きな力が与えられ、そして追い出せると言うことだ。

     マルコは書き記していないが、マタイの福音書よる平行記事には、このように書かれている。

    『そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
    イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」
    (マタイの福音書17:19~17:20)』

     そして、その次に、マルコが書き記した言葉が挿入されている。しかし、この節は、多くの写本には欠けており、マルコ9章29節に基づく後代の注釈的挿入であると見なされている。

    『「〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」(マタイの福音書17:21)』

     ここから「祈りと断食」と共に「信仰」が必要であることが分かる。
     では、この「信仰」とは何に対する信仰であろうか。それは主イエスに対する信仰である。

     私たちは、「主イエスの御名」によって悪霊を縛り、また追い出すことが出来る。その権威を主イエスが与えてくださっている。
     しかし、私たちにその権威の源があるのではなく、主イエスの御名による権威なのである。
     主イエスの御名を使わさせていただく時に、その御名を本当に信じ、また信頼し、より頼んでいるのかが問題とさているのだ。

     主イエスは言われた。

    『「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
     またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
     あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネの福音書14:12~14:14)』

     聖書に書かれた主イエスの「言葉」、すなわち「神の言葉」を本当に信じているのかが、何時も、何時でも問われている、とも言えないだろうか。》

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